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Sunday, November 16, 2025

......Tokyo




昨日、レクトヴァーソギャラリーでのグループ展は無事、会期を終了しました。お越しいただいた方々ありがとうございました。

会場で作品を一瞬でも観た人が好きに(メッセージはないです)反応していただけたなら嬉しい限りです。アートも写真も観た人がどれくらい考えたり感じたりすることが重要なので、瞬間でも目にとまり、わたしの写真が気に入らなくても全然いいです。他の写真家のいい作品が展示されて在るから、そういう役割にもなります。

今後も自分に根拠を問い続け、また出展の声がかかるように、ひとつひとつやって行きたいです。ありがとうございました。


Sunday, November 9, 2025

......Nihonbashi,Tokyo


忘れかけの記憶というか、消えていく夢というか、たとえば被写体をうまく写すことも重要ですが、わたしはずっとそこに在るかのような空気に、反応することの方が大事です。

二眼レフの正方形ファインダーを覗きながら、近くで見ているのに遠い印象、鮮明だけどおぼろげな光景、そういったものを写し撮ることができるなら、それは原型をとどめない程にシャッターを切る多重露光ではないか、と繰り返しました。

考えてみると、対象となる傷や錆や罅、黴、擦れ、汚れ、剥げ、染み、凹み、不気味な痕跡、不思議な実在感、ボロい色の隙間と奥行きの空間、虚ろに見えるのも、ある感情が湧きおこり枯れていった、余韻なのかもしれません。

撮影した色々な年代の色々なメーカーのフィルムを、現像のプロセスでモノクロもカラーもネガもポジも全てをいかに混ぜるか、バリエーションが安定しないように、同じ結果にならないように、失敗も含め曖昧なイメージを写真にしたいと単純に思います。

また写真はイメージであって物質でもあります。乾燥したフィルム同士を詰め込んで、漂白し擦って剥がし溶け出し混じり合って浮かび上がる現象は、前後、左右、上下、表もあって裏もあります。それが写真の面白さでデジタルデータに変換しました。

そこには写真をデータ化する過程で、変化する瞬間、変化しつつ凝固したと考えるしかないと、同時にそれは自意識の変化も生じるべきものです。そう簡単に自意識や無意識はコントロールできませんが、そういった意識の変化の上で、また一枚の写真に向きあう時、確かにリアルに在ったあの空気が、何か、幻を見せられているようで、そわそわします。

森川健人


11日(火)から東京・日本橋茅場町のレクトヴァーソギャラリーにて。お近くにお越しの際は是非ご高覧ください。

【展示内容/インクジェットプリント、カラー】


Tuesday, November 4, 2025

......Osaka

 



月曜、文化の日。フィルムを干してご飯を食べて洗濯して、昼過ぎ自転車で南津守中央公園へ。日課(?)のリフティング開始……毎度イメージだけはバッチリで、再現性は…。当たり前ですが、ボールを足で扱うというのは普段の生活ではありえない動作です。考え始めるといいことはありません。

ボールコントロールが大きくなったり、思ったところにコントロールできなくて、あっち行ったりこっち行ったり、心地よい汗が気持ちいいです。そんなひとりサッカーで、オッと思うことがあります。

リフティング音「これはいい音」としみじみ。芯を捉えた、音。アスファルトを踏む、音。足下の石を踏んづける、音。足の甲に当る、音。つま先でつつく、音。ザラついた質感、音。 両足リフティング百回、なにがなんでも……というほどの目標でもないけど、達成できた日は気持ちよく、だんだん体が軽くなって来たところで終了。


続いて、近所の名村造船所跡地到着。何年かぶりに「キタカガヤフリー&アジアブックマーケット」へ。目の前のセブンイレブンに停めて、入口はいった瞬間、いきなり正面前方斜め上でふわふわ踊る全身銀色のシルバーさん(?)発見。気になってズーと斜め下から眺めていたら、お腹いっぱい胸いっぱい「今日はもういいや」と気が変わり帰りました。

夜、レコードを聴きながら、相変わらず私家版を破って貼り、線ばかり画いてます。何かを作るとかでもなくて、ただ「それ」をやってみています。写真を貼る、写真に画く、音楽を聴く、自分の中でどこか重なっています。

気分が乗らない時でも意識が散漫な時でも、サッカーボールを蹴っているうちに体が軽くなってきて「もうすこしいけるかも」と思えてくる、この感覚を仕事にも活かせないかと考えます。

Wednesday, October 29, 2025

......Osaka

  


火曜、昼休憩に住吉大社駅下の惣菜屋さんで日替わり弁当買って住吉公園到着。池のほとりにそって置かれた木製ベンチで昼食。涼しい。

夜、レコードをかけて、次の写真に取り掛かる前の準備運動みたいなコラージュ(足したり引いたり)開始……こないだ日本橋の中古レコ屋で100円が相場のチープなミドルスクールの12インチ1枚…だんだん胸の奥の方がモヤモヤしてきます…次ドローイング(落書き)……96年産一般的には"微妙スクール"とされてた年代のLP 800円と謎の音圧の高いEP 300円…ひさしぶりに買ったラップとファンクをかけて貼っても画いてもなんか気持ちがよくありません。

わたしには同じレコードや本を数百回くらい聴いても読んでも(捲っても)飽きない体質がありますが、反面、新しものにフィットするまで一寸時間がかかることも。はじめはピンと来なくても、ハズしたと判断したくなくて、そんな時は何百回か繰り返して無理矢理好きになります。

日頃の散歩、撮影(旅)にしても偶に知らない場所を歩くことはあっても、だいたい行き先は何パターンかでいつの間にか同じ道を歩いています。何度も同じ場所を撮っているのに、変わって見えることってあるんです。同じことをくり返す、一見、退屈に思えることの中にも何らかの面白味があるはずです。いつの間にかそんな風になってました。

Wednesday, October 22, 2025

......Osaka




火曜、昼過ぎ梅田到着。阪神百貨店で「熱視線」というイベントの最終日へ。会場では作家の熱い表現に押されるように作品が並んでいました。とにかくまずはジーと眺めて反応するか、パラパラ捲るしかありません。

とくにZINEに目が行きますが、ZINEは読むためだけじゃなくて、触ったり眺めたり作家が自分の表現を紙に閉じ込めています。 いろいろ眺めて、捲っているうちに(わたしのなかで)イメージが広がるものとそうでないものとがありました。

たかつか 著『じじいのキャップ』、ジーと表紙のドローイングを見ているとグッとくるものがあります。頁を捲る感触、チープな製本と余白、ラフさ加減がカルチャーの匂いです。本文は薄いようで濃ゆい、浅いようで深い「じじいのキャップ」のガイド的な1冊。

HAZUKI SHIMMURA 著 『壁2024』、壁シリーズの2024年ヴァージョン。このZINEに写っているのは対象です。ディテイルが立ち上がっているもの、細部が写っているもの、単なる記録写真ではなく、そこには記録という意義に制作意図が込められています。目の前の対象しか写さないという作者の信念がこの本を美しくしているのだと思います。

長本淳 著『猫城市』(九份・猴硐編) 、ホウ・シャオシェンの名作のロケ地周辺「以後の風景」に立ち会う感じになったり、完全に分離したりと様々な視点があり、被写体とカメラの距離感に最後まで惹きつけられます。

長本淳 著『猫街』(西成編)、ここでも被写体に引っ張られる、心地よさにいつまでも浸っていたい空気が定着しています。人が写ってない写真(集)なのに、とても人間を感じる写真集出版レーベル「moment」刊行の2冊。

帰り道の途中、いつものドトールの窓際席でひとり会議。今日の4冊を眺めながら、結局買おうと思う本はパッと見ただけではわからないものを一回知りたいというのと、やっぱり、「自分のなかに取り込みたい」と一寸でも思うもの、そんな感じなのかなと結論になりました。はい。

Sunday, October 5, 2025

......Nishinari,Osaka

 


来月のグループ展の準備をしています。膨大なブローニーフィルムの6×6判フォーマットのデータを前後左右上下裏表クルクル、反転、回転させながら自由な角度から見まわし試行錯誤しております。

わたしにとって効率が悪いというのは、制作に於いていいことだと思っています。色やトーンを出すにもモニターより紙が難しくて、紙で見るだけで不思議と一歩踏み出した気持ちになります。

今回展示する作品は、普通に暮らしている流れで、今日が来て明日が来てという流れ以外に、頭の中の流れというのがあって、「そういえば十年前あぁいうことがあったなぁ、」とか。「あと十年くらいしたら自分も変われるかなぁ、」とか。「でも、なんか色々あるなぁ、」とそういう感じの写真です。

自分がやってる写真はどこまでも誰かに理解されるとは思っていないから、でもだからこそどこかの誰かに届けばいいなと思ったりします。

Saturday, September 20, 2025

......Nishinari-ku,Osaka




季節の変わり目。暑さは一寸和らいできましたが、相変わらず湿度はあるし、風の通りのよい道を選んで歩いています。

ところでこの三、四年くらいインスタグラムをずっと(三、四日に一回)投稿しています。思えばコロナ禍だった時分、しばらく海外に行けそうにないから、うずうずして過去十年くらいの旅した折のネガやプリントを握りしめ、今更ながら(当時としても大分遅い)スタートしたアカウントは、明確な理由もよくわからないまま続いていっています。

基本的にインスタはイメージを見たい(誰かの)、見せたい(自分の)、でよいのにすぐ「自分だけのものの見方を持たなくてはいけないのか」とか 「そのことにすら気付かなくなってもいいのか」とか嫌な意識が出てきます。そもそも自分だけの視点や考えなんてあるのでしょうか。

一見ものすごく斬新に思えるイメージや作品もたいていは元ネタがあるはずです。教科書の一つもあるのでしょうか。どんな影響の受け方をするかも個性なのかもしれません。結局、「正解」がない世界のことをやっていて、一寸時間をかけてようやく辿り着いた自分の「正解」ですら壊したり崩したりの連続です。でもこれが面白いもので、なかなか難しいものだということを身をもって感じます。

Wednesday, September 3, 2025

...Tamade park ,Osaka



残暑。夕方、あれだけ賑やかだったセミの声はしなくなり、代わってサボりまくった公園のひとりサッカーをしれっと再開。気温はまだまだ真夏ですが、確実に季節は変わり行きます。

空気のぬけた蹴り甲斐のないサッカーボールでリフティングしている最中、汗が目に入って記憶が浮かんだり、誰かがあの場所は面白いと教えてくれた所へ行ってみたり、偶然の出会いはあっても自分から調べることは殆どなくなりました。

今も写真はずっと試行錯誤して、最近は写真にとっての現実性とは撮影現場で記録することだけでなく、本来は記録したイメージより具体的なフィルムの物質性を強調することで、かえって抽象度が高まっていくことに興味を持っています。硬く言うと。

これは写真だけに限ったことではありませんが、抽象と具象が逆転する感覚やバランス、そんなものの見方、考え方が好きです。イメージを抽象化する要因になる曖昧な記憶、反復する記録性、成りゆき任せの物質的現象、そういった状況をこれからも積極的に受け入れて行きたいです。

Saturday, August 23, 2025

......Takehara, Hiroshima




帰省。月曜から二泊三日で広島と竹原に行って帰ってきました。

今年は一寸遅いお盆の墓参りをJRバス+広電(チンチン電車)…郷里広島では新しく駅構内から路面電車が出発するようになり、比治山下電停で降りて小高い丘(比治山)を登り放射線研究所の前の墓地に到着。汗だくで墓参りと墓掃除の後、気分爽快。付近の現代美術館とまんが図書館を移動してのんびり涼みました。

翌日は午前九時過ぎに宿を出て、広島駅から芸陽バス(かぐや姫号)+在来線(竹原〜吉名)で田舎の小舎(空家)の空気の入れ替えに向かいました。敷地内に植えた草木が(雑草も)驚く程スクスク伸び放題、 ここでも墓参り(猫のミーミ)をして気分爽快。

大阪への帰り道の吉名駅〜三原駅間の在来線の車窓からは海がよく見えます。この日は忠海から安芸幸崎間がとくにきれいでした。猛暑、この旅は暑さに負けてか?軟弱なわたしは思うように歩けませんでした。ちょこまか途中下車したい欲とひとつの場所にじっくりいたい欲は両立しません。

Monday, August 4, 2025

......Tengachaya Nishinari-ku




土曜夕方 、ギャラリー二等車。脇田耕二氏の『されどだけど』ストリートスナップの名手の個展に行きました。

まず展示でパッと目に入った写真は、被写体を中途半端なところで切っているフレーミングの作品です。普通撮った被写体はフレームに全部入れるんだろうけど、それ「説明」くさくなります。途中で切る。それも中途半端で切ってるところが「写真」の面白さなんだと思いました。写真家は面白いものを見つけ、被写体に引きづられて撮っているから面白いです。

あと写真展って一枚か二枚かっこいいのがあると、全体的にすごくよく観えること。バラバラはバリエーションとは云わないので、基本的なところを抑えつつバリエーションを意識するといいことも学びました。

そして写真(作品)はあまり溜めないで発表した方がいいよなと。発表しないでおくと自家中毒を起こし、写真が選べなくなります。いい写真を撮ることもなかなか簡単ではありませんが、それよりずっとモチべーションを維持しながら何十年も作品を撮り続けることの方が大変です。

Tuesday, July 22, 2025

......Tengachaya,Nishinari-ku

 



金曜昼過ぎ、天下茶屋のギャラリー『二等車』で河合止揚氏の写真展を観に行きました。撮影者が被写体に没入して同期しているかのような、撮影時のシャッター音がまるで聞こえてきそうな高度な白黒写真です。

こちらはただ観ているだけで気分が高揚してくる展示です。多分写真家は五感をフルに使い撮影することで、音や匂いを感じカメラが身体の中に侵入してきて、写真家自身はカメラと同期してくることを喜んで受け容れている様にも感じられました。

あと「大阪で撮るとき、大阪らしさが写っているかどうかは気にしない、そんなこと考えない…」と話された写真観も気になりました。わたしも作者の心情とか意図とかを抑えたほうが、得体の知れない面白いものに観えてきたりすることがあると思います。

Saturday, July 5, 2025

......Nagoya, Aichi

 



七月二日水曜から名古屋に行ってきました。思い返すと名古屋は約三十年ぶりでした。記憶では京都に住んでいた十代最後の年、当時暮らした上賀茂のアパートからバスと電車を乗り継ぎ、栄に在ったクラブまで竹村延和のDJを聴くためだけに訪れたトンボ帰り以来です。

今回の旅(誕生会も兼ねて)は難波から初めて近鉄特急の火の鳥に乗りました。せっかく三十年ぶりに来たんだから、いろいろなところに行ってみたい、歩いてみたいと思っても、夏の陽差しと空気。動き回る体力がない、と怠ける言い訳か、そうはならないのが現実です。

ただ名古屋駅前のホテルにチェックイン前、撮影しに行った九番団地(ブラジル団地)は印象的で、たとえば建物や壁、路面や看板やブラジル人、、、偶然、見慣れたような光景、なんでもいいです。ふとしたタイミングでそれらに接するとき、ぺタっと吸い付くような感触を覚えました。

この撮影してからの写真も、これからフィルム現像の過程で、露出不足、白飛び、現像ムラ、定着不足、水洗不足、画面上の傷、ホコリ、ベコベコにうねったフィルムを直接手で触りながら、決めていく感じです。ある程度の決まったプロセスはありますが、結局何をどう云いくるめようが、なんらかの必然性のない「もの」や「こと」は終息に向かっていきます。そのことだけはずっと信じられます。

Tuesday, June 10, 2025

……Osaka


土曜午後、長堀橋と梅田で用事をすませる途中、一応確認のため寄ったカメラのナニワで、一寸前委託に出したカメラ(使わなくなったマキナ67)が売れていました。

嬉しいような寂しいような、、、でもこのマキナだけで撮影した二十年間があったから今は色々崩して試行錯誤する気になります。カメラが変わると写真は変わりました。入ったお金は次の軍資金(旅費)にしたいと思います。


日曜夕方、撮影中フィルムが途中で千切れて上手く巻き上がらず、うっかりカメラの裏蓋を開けた瞬間、入れていたフィルムの銘柄を勘違い(ネガとポジ)していたことにも気づき、と云うこともフィルムでないと味わえない楽しさよ、とまた撮影意欲をかき立てるものです。

段取り良く、要領よくすること、これは自分自身の写真制作には逆効果でしかなく、要領よく順調に「仕上がらない」方向を探る、そんなイメージが浮かぶ時、表現したい気持ちが湧いてきます。


ふと子供時分、『ウォーリーを探せ』の本がブームだった中学生か高校生の頃を思い出します。当時家にも何冊かあって、あれ絵本なので割と頁数も少なくて覚えてしまうので、次からはもうすぐ”そこ”にいるなとわかってしまいます。そしたら終わってしまうから探さない方法はないかと、無理やり見てないふりして、チラッチラッと探したくなる気持ちを抑えていました。

今も日々の同じような作業を意識的に繰り返しながら、そこに無意識の微妙な変化が生じても、一つが終わると、しばらく間を置かないと客観的に判断できないことが多いです。それまでの時間が自然と消え、次の違った時間が途切れることなく流れ出すように、延命作業のような繰り返しをしています。

Saturday, May 17, 2025

......Tsuruhashi,Ikuno-ku




土曜、あたたかい日が続きます。午後、久々に鶴橋の御幸通(コリアタウン)へ。

人と会って話をしたり、今まで食べたことがないものを食べたり、レコード聴いてリフティングして、スポーツを観てそれなりに感銘を受けたり、そんなことが普通の日常に入り込んできます。だけどそれだけではどうにも埋まらない部分が自分の中にあり、そこに写真をすることが自分にとっては重なってくる、と云うのが一番いい得ているようです。

写真を撮ったり写真を切り貼りしていて、一番の快感はそんな日常で言葉や考えつくあらゆる方法では埋まらない、自分の感覚の断片がヒョンなことから写真の上に定着した瞬間です。そんな時は無意識のうちに色んな角度から目の前のカタチ(断片)を眺めています。自分の感覚や感情を写真にしようとする場合、そこには何か具体的なイメージはあらかじめなくて、全体的な写真の進め方はもうずっと主観的です。

よしんば、具体的なものを撮ろうと云う意志の上に写真がスタートした時も、そのイメージは一つの物差しにはなり得ますが、感覚や感情を表現すると云うことにおいては、やっぱり写真の最終形は最初から何もありません。

うまくいこうといくまいと頭で考えるあらゆる理屈を超えたところで、写真をしたいと云う衝動が今も自分の中にはまだ残っているか、を確認しているような感覚でもあり、この感情はいったい何なんでしょうか。

Sunday, April 27, 2025

......Nishinari,Osaka

 



先月、二週間ほど台湾に滞在した後”台湾”のフィルムをまだまだ一寸づつ現像しています。全く台湾らしい光景ではなくても、自分が歩いた台湾を思い浮かべ、その情景の匂いのようなものを、思い出しながら作業を進めています。なぜか新竹の竹東(ジュートン)の街が頻繁に頭の中にあります。

自分にとってフィルムと云う記録媒体は、無意識の領域を刺激するには適していると思います。短期間の外国へ行った後とか、意識している、していないにかかわらず、一気に自分の中に入り込んだ様々な情報で混乱してぼやけてしまった部分を徐々に落ち着かせる手段として、撮影済みフィルムを現像して漂白してデータにして見ていくと気持ちが楽になります。なので見たものを正確に写し撮ることでもありません。

そうして、本当の無意識は中々むつかしく出来なくても、無意味なら近づけるんじゃないかと思います。ついつい意味があることがいいんだと、当たり前のように思い込んで、だけど意味はなくても全然いいんじゃないかと。意味や価値をそぎ落とし、好き嫌いをなくしたところに、面白さはないか、面白くしたいです。

Saturday, April 12, 2025

......Kyoto

 


ひとりサッカーの日課は、今月に入って実行率六、七割と云ったところ。先月は旅にも出たりでサボり気味です。最近は高尺フェンスとバックネットの在る西成高校横の西成公園でキックの練習も始めました。(全くキック力ありません…)

先週日曜、誕生日に京都へ遊びに行きました。錦市場近くの自転車屋で”Tokyo Bike"をレンタルしました。どこに行くか決めず、身体にまかせる…と云いつつ、だいたい鴨川沿いを北へ北へ向かうお決まりコースを漕いでしまうのですが、それもまたよし。と花見客あふれる鴨川べりに座ってサンドウィッチ、住宅街に逸れて古本屋、古着屋、御所でトイレ、京都グラフィー関連のギャラリー、旧ガケ書房のホホホ座、、、鴨川沿いに戻って、北山にかけての西岸沿いに腰掛け珈琲と一緒に誕生日ケーキ、そんな一日を自転車でブラブラしていました。

途中、京都の街で、とてつもなく刺激を受ける場所に偶然出会うこともあります。それは、いつも通い慣れた大阪の路上を意味もなく横に逸れたりした時に出くわすことがあるように。

いろいろな都市や町を訪れる機会はありましたが、そこを少しはずれるだけで、まだまだとんでもないものがあると云う単純な事実、そして好奇心の大切さを思い知らされます。

Saturday, April 5, 2025

......Taiwan




三月十二日水曜夕方、南海線で関西空港、タイ・ベトジェット(LCC)で桃園空港。この度も同乗者なしのひとり旅。基本的にこのスタイルが自分には一番しっくりきます。降り立った桃園空港は大阪とは一転して、じとっとした空気、そして飛行機から出た時に感じるその国独特な匂い、かわいていた外国旅の感覚が一年ぶりに戻りました。

早速新しくなったイミグレ→両替キャッシング→SIMカード購入→ヨーヨーカードチャージ、順に済んだら空港メトロに乗りました。まずは中壢の『老街溪』と云う新しく出来た地下鉄駅で降りて、駅前の無人チェックイン宿に到着。今回のスタート地点はここ。翌朝から台湾を反時計回りに電車とバスを乗り継ぎ、地方都市のローカルエリアを目指しました。

途中、中壢駅(火車站)界隈桃園駅(火車站)界隈、内壢の市場周辺、新竹の城隍廟、竹東は山線で、苗栗の旧市街地、、、台中駅(火車站)界隈と市場周辺、その後も南下して斗六、斗南、虎尾の街角まではローカルバスで乗り降り、新營の寂れた路上、台南の円環、、、ヘロヘロで辿り着いた屏東。からの北上して東部の花蓮は中国大陸みたいなだだっ広い道が印象的、宜蘭の夜市路地裏をブラブラしたら、やっぱし基隆でタイムリミットまでを過ごしました。

結局、宿は四箇所移動しての二週間一寸。その間は最近使い始めたローライ4×4(ベビーローライ)とローライ6×6(ローライコード)を出来るだけ交互にブロー二ーフィルムを詰めて、ゆっくり歩き、ゆっくり撮り、いっぱいフィルムを巻いて、「次」の写真を撮影してみました。それが今の自分の望みであり、急いだところで終わりに近づくだけと云う諦めもあります。

この旅は台北の親戚や知り合いには会わず、四十九歳の今、現地でおもったのはスニーカーが擦り減るほど歩いた都市や穴があくほど見てまわった町はたくさんあるわけではない、でもだからこそ、それらは自分の宝になります。十数年前から台湾は好きだから何度も歩きに来て、見てまわった都市もあれば、惰性と云うか、安心感を得るために訪れた町もあります。思い込んでいっているうちに、だんだん面白くなったり、はじめはピンと来なくて、無理やり好きになることも(ものも)あります。自分のカンと思い込みで。

そうして毎度旅では、ある場所で、初めて来たのに懐かしい何かを思い出します。昔の友達、かつての自分、あの頃大事にしていたこと、あの頃を思い出す音楽、匂い、、、旅をしている時はそれが後の自分にどんな影響を及ぼすかわからないことの方が多いのですが、旅は過去と未来を含んでいると思います。云いかえれば、旅はいつも自分の中に在ると実感します。

また新たな旅、同じ場所に何度も向かう旅、現実逃避するような旅、これからも繰り返したいと思える今が、うれしいです。今晩も台湾から持ち帰ったフィルムを一寸ずつ現像しています。

Tuesday, March 11, 2025

......Nishinari,Osaka



人は様々な理由で旅に出ますが、自分にとって旅の必需品、それは今も昔も簡単な筆記用具とカメラ、フィルム。これだけあればたいていの退屈な時間からは解放されます。

絵は昔から全く下手で、でも実は描きたいと云う気持ちだけは人一倍強かったです。だけど描けば描くほど似てなかったり、あの頃(子供の頃)は模写の時代って云うか、わたしの絵はあまりにも似てないってことで、後ろめたさや負けた味わいがずっとありました。

その点、写真は誰でも押せば絵になります。旅先では風光明媚なスポットや観光地には殆ど興味が湧かず、ボロボロに崩れかけたビルの壁、放置された段ボールの佇まい、草臥れたオジサンの後ろ姿、見た瞬間スッと心に入り込む得体の知れない何かの塊(カタマリ)に反応しています。

見たモノを正確に記録したり、見た光景を理解しようとすることでは全くありません。目の前の空気や佇まい、気配と云ったものを感じフィルムに落とし込むこと。進行形の状態で「カタチ」をできるだけ画き込み、貼ること。それらが自分にとって旅先では一番重要になります。

それは見ることと共に音、気温、湿度、匂い、風、光それらのすべてが絡み合います。稀にそれらすべてが身体に入り込んでしまったような感覚を味わい、これが「旅と時間」、「写真と自分」の関係にもすごく似ていて堪りません。旅の前日カバンにカメラとフィルム、筆記用具を詰め込む時、いつもそんなことを思います。

Sunday, February 23, 2025

......Tamade,Nishinari-ku

 


日曜、寒い。日課のリフティングは目標の回数未満の日が続いていますが、街の中をうろうろして、好きなカメラで好きなように撮ることは変わらず、続いていっています。

この数年はいろんなフォーマットのカメラで撮っています。最近はローライコード6×6と併用してローライフレックス4×4(ベビーローライ)と云う二眼レフカメラで127サイズ(ベスト判)フィルムでも撮りはじめてみました。

このベビーローライ久しぶりのカメラ萌えじゃないですけど、かわいくてしょうがないです。でもたぶん、私は同じところを行ったり来たりしてるだけで、実際にはカメラとか技術が変わってるだけで、変われない、って云う感じはするんです。

あの手この手を使いながら、これからどうなって行くんでしょうか。わかりません。昨日言っていた事と今日言っている事が一寸違っていても、自分の中で些細なことをどれだけ盛りあげることができるか、正解なんてないですから。

Sunday, February 9, 2025

......Nishinari Community Center



日曜、雪がチラチラの昼過ぎ。近所の区民センターへ大好きなラッパーの恒例ライブ『元気です西成2025』に向かいました。相変わらず堂々と西成節をキープオン。

最近は晴れの日一万歩、雨の日五千歩の習慣が、いつの間にかリフティングとドローイング、時々撮影(現像)の日常にシフトしてループオン。

子供の頃、絵(落書き)やスポーツ(サッカー)、音楽(レコード)に普通に興味を持ち、そのあと何となく興味を持った写真の道に進んだわけですが、単純に写真を撮ることだけに自分のおおかたの満足が得られる道筋があったなら、もう少し気分的に通りのいい日常を送っていたのかもしれません。

だけど、いつしか自分の好奇心はそう簡単に写真だけを能天気に撮っているだけでは一寸満足のゆかない領域にも突入してしまったことも事実だと思います。

また以前は失敗だと思っていたものが保留の時間を経て、あらためて見返していくと、この失敗だと思っていた落書きやサッカー、レコード、フィルム、プリント、そのものが今のスイッチとなり、何かつくりたくなる原動力なっていると感じます。

Thursday, January 30, 2025

......Tamade Park

 



一月。公園でひとりサッカーもだいぶ慣れてきました。年末にアディダスのサッカーボール五号球(パキスタン製)を手に入れてからは、仕事終わり夕方から近所の公園に寄って、一時間一寸ボールを蹴っています。運動はお天気にも左右されますが、大体この一ヵ月間は週休二日をキープオン。

全くいい加減かつ往生際の悪い云い方をすれば、久々に本当何十年以上経った今、このサッカーのボールをひとり壁面に向かって蹴っていると時々「何を自分はココでしているんだろう?」と奇妙な感覚に陥ることもあります。

五十に手が届くおじさんになった今、大阪の片隅の公園の地面の出っぱりにつま先を引っかけて転びそうになりながら、「俺は上手くないんだからいっぱい蹴って、下手なんだからびっちり蹴っていれば……」 イメージだけのかつて日常だった過去と現在がガッと混じり合うような気分になってボールタッチ。

いつもどんな気分になろうと、ひとつのモノを見続けていると、いつしか視点のほこ先がこちらの思いを越した内側に向いていることもあり、奇妙な感情や行動が見え隠れする瞬間があります。そして過去と今の時間が様々な方向へ飛び散るような不思議を思います。

ただボールを蹴る、ボールに触るだけで楽しい、と云うこと。それだけなんですが、サッカーこれから上手くなりたいおじさんのつぶやきでした。

Sunday, January 5, 2025

......Minamitsumori Central Park



あけましておめでとうございます。年末年始は広島に帰省せず、ビールと日本酒を飲みながら、レコードをだらだら聴いたり、本を捲ったり、リフティングや壁パスしたり……。

そんなことをあれこれしながら、また「余白」でなく画き(貼り)こむだけ画き(貼り)こみ、画く(貼る)場所がなくなったら画いた(貼った)上からさらに画き(貼り)こんでいくドローイング(コラージュ)をやっていました。

ドローイングやコラージュをやることによって、重なり合う意味不明な線(形)を段々と自由に見れるようになって、写真も変化してきました。

その時々の関心で写真も変わるように、今はコラージュとドローイングに興味が移っているけど、今年はどうなるのか。その日、自分がなにを見ているか、予想もつかないところも写真の面白さだと思います。

新年の抱負なんてなかなか浮かばないけど、ふと二十年ぶりに思い立ってサッカーボール五号球を蹴ってみたら、泣きたくなる程下手くそなので、今年は今より少しは綺麗なリフティングを、壁に絶妙なパスを、蹴れるよう挑戦(練習)してみようと思います。そして、とりあえず一年無事に過ごせるといいなと。 

Tuesday, December 31, 2024

......2024

 



火曜、大晦日。クリスマス以降は北浜のFOLK old book storeで開催されていたスーパーハイパースぺイシーのともさんCAPをプレゼントでもらい、その後は忘年会や飲み会とかはいっさいお誘いがありませんので、まあ暇、暇でもないんですが、のんびり年末を過ごしています。

ふと、一月から順番に今年の記憶をふり返ってみても、ざっくり云えばやや迷走気味で、健康状態は割と良く充電の年だったと前向きに考えることにします。最近は、無理せず怪我せず疲れを溜めず、手の届きそうにない欲求はあきらめ、静かに暮したいと、若い頃にはこんな平穏を望む人間になるとは思っていませんでした。

今、望むことは単純に普通に暮らしていくこと、自分ができる仕事を続けて生きていくこと、以外は望んでないです。あと好きな外国の路上に一寸行けて、歩いて撮れたらいいなと思うくらいで、いつもそんな気持ちには変わりありません。

結局それしかできないから、いつかどこかで偶々でも自分の作品を観てくれる人がいたら、なるべく好きに観てくれるように(メッセージはない)、本人の意図から離れれば離れるほど面白くなっていくように、同じようなことを淡々と積み重ねていきたいです。

2024年ありがとうございました。よいお年を。 

森川健人

Friday, December 13, 2024

......Nishinari-ku

 



気がつけば師走、今年もあと一寸です。四、五年くらい前に買ったストーブから異音が出るようになったので、家電量販店をハシゴしていろいろ見て回り、選ぶのに大分迷い、結局ネットに出ていたリーズナブルなのを買いました。

新しい濃いグレーのストーブは省エネタイプで今のところ快適です。この電気ストーブは「弱」から「強」の間に四段階のメモリがあり「弱」でもけっこう暖かいです。


いっぽう普段路上で被写体を選ぶ時は、すごく直感的に選んでいて、その被写体を見た、本当に見た瞬感に撮るか撮らないかをジャッジしていて、それは直感としか云えません。新しいアイデアは出そうと思っても中々出るものでもないですし、自分で自分を枠付けして縛ってしまうところもあるので、息苦しく感じる時があります。

今はアディダスかオールスターを履いてローライで撮っているけど、もしこれよりいい道具があれば、いつでもそちらを使いたいです。継続して活動していく中でいろいろ見つけてちょこちょこ変えて、一寸ずつマイナーチェンジしていくのが好いのかなと感じています。

Sunday, December 1, 2024

......Nihonbashi,Tokyo

 











Art photograph group show (2024 November)に参加しました。ありがとうございました。

今回展示した新しいシリーズ"the versions"は観る人が題名に引っ張られることがないように、出来るだけフラットな言葉でなるべく具体的な情報を入れないようにこのタイトルにしました。観る人がどう考えるかが今の自分にとっては重要だと思っているからそうしました。

なんで自分自身そう云うことをしているのかは説明出来なくても、明らかにモチベーションがあってやっている感じです。自分が面白いと思っていて、コレが写真かどうかはわからなくなる時があり、自分でもわからないってところがすごく重要で大事だと思っています。

わからないことは面白いことなので、繰り返し歩いたり撮ったり、わたし自身もわからなくてやっていることが、いつかわかって説明が出来るようになると、そこでモチベーションがなくなりそうです。なので方法とか過程の説明は出来ても「わたしの作品はこうなんです」って説明は出来なくて、結局説明出来ないから写真にしています。

森川健人


I participated in the Art photography group show (November 2024). Thank you very much.

The new series "the versions" that I exhibited this time is clearly motivated, even if I can't explain why I do it.

I find it interesting, and there are times when I don't know if it's a photograph, and I think it's very important and valuable that I don't know myself.

Not understanding is interesting, so when I walk and take pictures over and over again, and one day I understand and can explain what I'm doing without even understanding it, I think my motivation will disappear. So even if I can explain the method or process, I can't say "this is what my work is like," and in the end, I take photographs because I can't explain it.

Kento Morikawa


Friday, November 22, 2024

……Tokyo




the versions2024


展示作品について、このシリーズはまず撮影によってイメージをつくることからはじめました。

時々歩く故郷の土地や、現在暮す町の界隈、偶然歩いた旅のどこかでも、カメラを手に目を凝らせば、あらゆる場所にずっとそこに在るかのようなキズやサビ、ヒビ、スレ、ズレ、ヨゴレ、シミ、ヘコミ、アタリ、カケ、ハガレ、メクレ、様々な放置された痕跡とボロい色の隙間に身体が反応して写真のスイッチが入ります。

それら大半は誰にも気づかれることなく、無関心と時間の中に生じたロスやエラーやノイズとして世界から消えていきます。偶然、わたしはその瞬間、フィルムを使ってイメージを定着したいと写真衝動に駆られます。ひとつのことが別の何かにつながってゆく感じです。

今回のアブストラクトシリーズでは、イメージを抽象化する要素になる撮影においての曖昧な記録性と、コントロールしきれないまま浮かび上がってくるフィルムの物質的現象としての作品を提示したいと思います。

森川健人


Tuesday, November 19, 2024

......Takehara,Hiroshima





日曜朝十時半、梅田からJRバスで五時間半、広島駅に向かい駅中の花屋でお供え花を買ってチンチン電車に乗って比治山へ。

あれからあっと云う間に五年が経ち、気づけばお盆と命日のこの時期はいつも墓参り。気持ちも落ち着きスッキリします。翌朝、広島で撮影をして昼からかぐや姫号と呉線に乗り継ぎ田舎の小さな古い駅へ。そこから一寸歩いて誰も居なくなった小舎の空気の入れ替えに行く、も誰に頼まれた訳でもなく、好きで続いています。


同じく、つい最近のような昔。暗室で印画紙を焼くのに、中々いい感じになりませんでした。1997年か98年くらいから20年は続いてきたこう云う作業が実は向いてなかったのかと、遅ればせながら軽く病みました。それで少し前「よし、じゃあこれ、やめよう」と、最終的にはインクジェットにして、精神的にも(経済的にも)負担が少ない方法に変えてみました。

だけどインクジェットでプリントした写真は滑らかで表面的な感じがして、もっとゴツゴツした物質感が欲しくなります。撮影自体はずっと変わらずフィルムで、写真の撮り方も相変わらずファインダーをよく見て撮っているのではなく、出会った瞬間いきなりシャッターを1コマ何度も重ねて押すような撮り方です。スキャンするフィルムは暗室作業の際に水を通って、現像ミス的なものの上に乗っかる粒子とスレやキズや汚れ、水滴まで意識的に残すようになりました。

より物質的に写真に接触するよう、手垢のついた複数のフィルムは、幻影でなく具体的でリアルな実物感を強調することで、かえって抽象度が高まっていくような感じがしています。抽象と具象の逆転した見え方や、考え方に興味を持つようになりました。フィルムを使って記録したイメージとそれを妨げる要素としてのノイズは、一見具体的っぽくも抽象的な要素がある、こんな不思議なバランスがおもしろくて続いています。

Saturday, November 2, 2024

……Nishinari,Osaka

 


11月、ひさしぶりに岸和田の額屋さんに写真を持って行き、昨日も今日も部屋の片づけ。押入で十年二十年と眠っている写真をどうするか、最初からそんなものなかったと諦めるか、掃除をしながら、体だけでなく、心や気持ちも動かすことが大切なんじゃないかと考えます。

おなかいっぱいだと何も食べたく無くなるし、ある種の空腹感、渇望感が心を動かすための鍵なんじゃないかと。また写真を水に通して干して、破って貼って、剥がして切って、再度貼る、「アレ」がスタートします。年がら年中、誰に頼まれたわけでもない、当然不合理で無駄の多い制作をして過ごしています。何となく全体像みたいなものが見えてきそうな手前あたりまでは楽しいのです。

新たなシリーズをつくりはじめたころは自分でも思いもよらないような「イメージ」やら「一枚」やらが浮かび上がるたびに心が躍ります。そのうちだんだん枚数が増え、フィルムシートやドローイング、コラージュ置場の棚が埋まってくると「これ以上、増やすとまずい」と云う気持ちが先立ち、ブレーキを踏みます。自分がどん詰りに入るパターンはいつもこれです。

わたしはもう一寸で大阪の西成と阿倍野の境目の西成側に移り住んで九年になります。四十歳の年以来、ずっと同じこの3DKの部屋で一度も引越しせず(暗室は一度引越した)、案外長く同じ町に住んでいます。いつまで自分はここにいるんだろうと、そんな疑問が時々頭をよぎります。だけど先のことはわかりません。わからないまま九年近くの月日が流れたので。

Thursday, October 10, 2024

……Osaka




今週も水曜、岸里駅から大阪メトロ四つ橋線の本町駅で降りて、靭公園方面へ向かいました。先週からの歯科通いは取りあえず二回で完治しました。

 最後の消毒前、「もう口の中は虫歯ゼロ…」先生が呟いた瞬間、久々にはしゃぎたくなりました。 しばらく痛んだ一本の歯がなくなっただけで、前は沁みながら食べたアイスの味が、凄く甘くておいしく感じるけど何かまだ違和感あり。人体の不思議を感じます。

制作中の来月末参加するグループ展の写真を破ったり貼ったりしていると、次に貼りたい写真が見つかります。このシリーズの写真を撮っているうちに、次に撮りたいものが見つかります。つくりたいことが一寸づつ増えていきます。

わたしは色々と理解して組み立ててつくろうとすると全然ダメで、制作過程がどうであれ、いつも思うのは最終形を想像しても、まず予想通りには上がらないことです。どこかに予期せぬ箇所が現れます。その予想通りに上がらない点が最大の魅力でもあり、その都度先読み対応に迷いが生じます。そんな迷いは拡散してキリがありませんが退屈はしません。

今回展示予定のアブストラクトシリーズでは、そういった状況を積極的に呼び込み、一本のラインを完成させないまま継続することを考えて、作品を提示したいと思います。


Wednesday, October 2, 2024

......Osaka


暑い暑いとぼやいているうちに、気がつけば十月、段々涼しくなってきました。水曜、夕方五時過ぎ靭本町の歯医者。一寸前、奥歯の詰め物が突然取れ、ずっと放っておいたら血流のリズムでズキズキと頭に激痛が走るので、教えてもらった靭公園前の歯医者に行きました。

ひとつのことが別の何かにつながっていく感じというか、現在暮らす町の界隈で、時々歩く旅のどこかでも、カメラを手に目を凝らせば、あらゆる場所にずっとそこに在るかのような「キズ」「サビ」「ヒビ」「カビ」「カケ」「ズレ」「ケズレ」「ヨゴレ」「ハガレ」「シミ」「ヘコミ」「アタリ」、、、放置された痕跡やボロい色の隙間に身体が反応して写真のスイッチが入ります。それら大半は誰にも気づかれることなく、どこかに隠されたり、無関心と時間の中に生じたエラーやロスやノイズとして世界から消えていきます。偶然、わたしはその瞬間、フィルムを使ってイメージを定着したいと衝動に駆られ、モチベーションになます。

理屈ではなく、いまコントロールしきれないまま、浮き上がってくる写真を自分ではどういう風になるか分らないまま、行き当たりばったりのプロセスの中で、関心が拡散してキリがありません。キリがないけど思い込んだ意識が壊れ変化していくことで、自分の中の縮こまって空回りしていた曲線が伸びてゆく感覚があります。

コントロールできないこととは、外部に在るものを受動的に取り込む行為や、見ていなかったものが写り込んだり、予期せぬことを積極的に呼び込み浮かび上がってくる写真の「現象(ゲンショウ)」のことについてです。深く考えずに、ただ遊んでいたら「オッ」と思うようなものができた、そういう感覚のことです。

Sunday, September 8, 2024

......Nishinari-ku



まず使い古したバスタオル(暗室用)その上に、第一現像液(D-76/ミクロファイン)、停止液(酢酸水)、発色現像液(C-41)、漂白液(C-41)、定着液(fix/C-41)、それぞれ1リットルずつ計量カップに5つ並べます。液温はフィルムによって若干変えなければいけないので、ほぼ勘です。あとは暗黒トイレで撮影済みフィルムを一気にリールに巻いてタンクに詰めたら、ネガ現像(白黒)+ ネガ現像(カラー)の流れで行います。

第一現像後にフィルムを取り出し光に当てる際のあて方による光線ムラや、発色現像と停止が済んで像が黒く浮かびカラーネガ現に入ったら、おまじないとして歯ブラシでスクラッチします。あと現像ムラは魅力なので気泡がついたりムラが起き易いように撹拌はしません。ネガ 現+ ネガ現の工程が終わりガッツリ水洗したら、水滴感も魅力なので、乾いて跡になるように、スポンジで拭き取らずビチャビチャのまま、その時、隣り合うフィルムの乳剤面同志がぺタッとくっつき重なり合わせたらフィルムクリップで重さをかけて吊るします。再度、ホコリが乗り易いように霧吹きでたっぷり水やりして干していきます。

結局どん詰まり感から、いろんなやり方をやって、やらなければならないことをせず、関係ないようなこと、一見意味がわからないことばかりに時間をつぶし、結果やっつけ仕事から受ける赤面するほど意外な「現象(げんしょう)」が隠されていたりする、こんなやり方に辿り着きました。意味が絡み出すと同時に消え去る繊細な部分や、かつてどこかで見たことがある光景は、全て反射的感覚的に興味を覚えるかどうかです。

写真(作品)によっては10年くらいまだ途中みたいなものと、30秒で終わる時もあったりします。本当に、そん時そん時一瞬で終わる時の方がキレいだったり、カッコいいと思う場合が多い気もします。また自分の都合のいいように、状況を直接的に換えて思い込みと衝動を繰り返す行為は、アレコレと解釈して、写真と対話しているみたいです。だから必ずしも正しくなくていいと思うんです。

Thursday, August 29, 2024

......Osaka




金曜日、甲子園決勝。京都国際が延長タイブレークで初優勝(ありがとう21は惜しかったです)。今夏の甲子園、投手力と守備力の高いチームが勝ち上がって「守りの野球」を掲げたチームが多かったです。僅差のシビれる好ゲームが特に印象的でした。

高校野球を見て別に撮らなくても、何の役にも立たない写真を、作品がつくりたいと云う欲に動かされて真剣に撮っています。カッコいいと感じるボロやグッとくる痕跡は写真のスイッチになります。ボロい痕跡なら何でもいいと云う訳ではなく、これは今に始まった感覚でもないので、生理的な好みと云えばそれまでです。そんな感覚は変化も発展もなく、自分の中に在り続け、モチベーションにも繋がっています。

水曜、ネットで注文したC-41現像キットが届き、早速カラーネガとポジフィルムの現像にも挑戦してみます。思えば、ずっと写真は現実を写すことだと思い込み、その考えは好きでしたが、正確に撮って正確にプリントに落とし込んで出来上がる写真に、いつまで経っても居心地の悪い息苦しさも感じつつ、不得意で長年迷走していました(います)。

近年より細密で鮮明に、素早く簡易的に目の前の光景を記録していく高解像度写真を横目に、ついにはAI(人工知能)まで駆使して作品をつくる時代に……なんてもう全然「向いてない、やりたくない、もういいや」と思いながらも、変わるもの、変わらないもの、昔も今も「ある」と云うことが当たり前じゃないんだなとよく思います。必需品だったものが必要としなくなることもよくあります。

そんな時、どこかで見つけた誰かのフレーズ(ことば)を想い浮かべ、だけどどうしていいかわからないまま、得意の思い込みが発生したら、どうしようもないから思い切って変えてみようと、頭の中で縮こまって絡まって空回りしていた曲線がちょっとずつ伸びてゆくような気分になりました。相変わらずできることは限られているから、その中で方法や考え方に負荷をかけながら、途中を簡単に完結していかないように、延命作業を探して……今もこんな感じでやり過ごしています。


Monday, August 12, 2024

......Nagarekawa,Hiroshima

 



水曜朝、大阪駅JR高速バスターミナル。夕方広島駅到着。駅中の花屋で青と赤のバラのドライフラワーを買って、チンチン電車で比治山へ。今夏も一寸早いお盆の墓参り。比治山を散歩しながら街路樹で鳴くカラスを見ると何となく懐かしさがこみ上げてきました。

木、金曜と連日猛暑日、湿度も高い。自分は寒さに弱く、暑いのも弱いと思っていたけど、今年の夏は一寸元気かなと感じます。かねてより計画した地元流川界隈の撮影の続きも続けました。写真を撮るのも散歩するのも楽しい時もあれば、そうでもない時も、低迷しているなあとしみじみ思う時もあるけど、でもたぶん続けることに意味があるのだと。続けていくことがエラいとはちっとも思わないけど、続けていないと味わえない「まぐれ」みたいなのは多いです。飽きないように燃え尽きないように、だらだらぼちぼち歩きます。

月曜(振替休日)、高校野球。甲子園「ありがとう21」は二年連続初戦勝利!いい投手戦でした。昨今の高校野球にはクーリングタイムと云うのがあるけど、寒暖差疲労は大丈夫なのかしら。三十六歳の時、高校球児(三年生)の二倍の年になったのかと思ったけど、あと五年で、三倍。集中して野球を見ているだけで疲れてしまいます。夕方、ブローニーフィルム現像18本。


Sunday, July 28, 2024

......Osaka



土曜昼、この夏も西に向かって応援してました(web観戦)。連日の猛暑のなか選手、えんじ色のタオルにガタイのいい坊主頭の応援団、ブラスバンド、ダンス部、先生、、、見事夏2年連続25回目「ありがとう21」バンザイ!

日曜夕方、道が曲がってグネグネした袋小路みたいな場所の、何かわからないけど造形が面白い、狭くて入って行くところ、何かわからないけどたのしい、と感じて身体を傾けて大汗かいていました。別に入って行かなくてもいいけど、何となく入って行った方が撮れそうな気がする、こう云う場所が大阪にもけっこうあります。

コマーシャル系やドキュメンタリーのように、社会的な文脈で成立している写真を撮るなら、被写体に付随している意味を読み解けばいいのですが、自分のようになぜこれを撮ったかと云う動機が存在しない(ように思う)写真に対して、自分が語っても、それは正解ではないし、信用なりません。写真について話す言葉はとても難しいです。

コンセプトなんてなくて、無秩序で最終的に決めているものもなく、何を撮るか、どこで発表するか、その為の資金をどうするか、そう云うことは全部自分で決め、ずっと「自作自演」みたいな行為がえんえんと続いています。簡単に言葉にすることができない写真の「時間と空間」をそれだけで完結させないように、普段からできるだけ非効率的で非合理的な行為の続きを、続けて行く、たぶんそれしかありません。そして自分の意識(言葉)や写真の勘みたいなものが変わってゆくことを感じたいのです。

Sunday, July 7, 2024

......Tsuruhashi,Osaka

 


木曜昼、大阪気温三十五度、連日猛暑日。梅田で待ち合わせして鶴橋に移動し、サムギョプサルで誕生日おめでとう。マッコリでしめました。

土曜、普段は日常のどうでもいいようなことの積み重ねで、散歩して撮影して家事をして仕事してという、一日をくりかえします。十代のはじめ頃「人は頭より足から衰える」と鉄人(アマチュアマラソンランナー/トライアスロン選手)の祖父に教えられたことをふと思い出します。今もけっこう記憶に刻まれています。

記憶していることの理由は、なぜ今まで忘れずにいるのか、それを考え出すとキリがありません。何十年前の自分と現在の自分、昨日の自分と今日の自分、自分のことを云いだすと、矛盾がでてきます。様々な矛盾があるにせよ、昨日写したフィルムを眺めつつ、とりとめなく共通点を思い浮かべます…イメージの堆積、キズ、シミ、放置、不要物、雑多、変色、消耗、、こんなような言葉が浮かんでは消えていきます。ボロければなんでもいいと云う訳ではありません。反射的にカッコいいと感じるボロには心がとろける思いがします。生理的な感覚と云えばそれまでですが、その感覚は、ずっと自分の中に在ります。そして撮影を重ねて新たに生まれたカタチがリズムとなって、自分の認識はこれくらいまで変えられるのかとも思い始めました。

わたしの場合、観察や状況を客観的に見定めることとは違うので、写真を撮りたくなる行為、無性に作りたくなる衝動を大切にしたいのです。好き嫌いを越えたところで、その気にさせられる扉、壁や柱の質感は云うまでもなく、ポスターのはがれ具合、看板の傾き、電線のたるみ具合、ビニールシートは薄汚れた透明とブルー、路上の植物と寝ころぶオジサンの身体、通りすがる男の後頭部、錆びたトタン屋根とまったくほったらかしでグッとくる経年感たち、そんな光(影)のカタチ(リズム)を捕獲したら「早く室に走って帰って、現像してやるぞ!」とモチベーションが上がり、気力と体力に合わせた生活につながっていきます。

Monday, June 17, 2024

......Shin-imamiya,Nishinari

 



金曜夕方と日曜昼、南海電車新今宮駅周辺で撮影。暑い日はできるだけ日陰を歩きながら、今もフィルムが好きでやっています。遅ればせながらいろんなフォーマットのカメラで撮ってみたくて、ローライコードと云う古くてリーズナブルな二眼レフでも撮っています。久しぶりに胸がキュンとする渋い中判カメラです。

これまで20年くらい1台(マキナ67)だけでやってきた反動というには大袈裟ですが、今一度カメラでも変えてみるかと使ってみたローライ35の小型軽量で目の代理として身体の一部に馴染むタイプに続いて、ローライコードは写真を撮影してない時間でも、気分的にリラックスしたい時にも触りたくなるような6×6。長方形の箱を両手で包み込むようにして構え、その中に光を捕獲する、そんなイメージです。

横着なわたしは、フォーカシングスクリーンで画角をしっかり確認することなく、大体の位置から1コマ複数回重ねてシャッターを切ることが多いです。撮影までの歩行やいくつかの手順を繰り返して、何回も押すシャッターから聞こえるそっけない音は、興奮しがちな頭を冷まさせます。うまい写真やいい写真を撮ることより、モチベーションを維持するための、負荷をかけたり変化をしながら、ああでもないこうでもないと何十年も写真を続ける方がはるかに難しくも面白くもあります。

Monday, June 3, 2024

......Shinsaibashi,osaka



ここのところ、1950年に発売させた二眼レフカメラと1980年代には期限切れのブローニーフィルムを使うようになりました。雨の日は玉出〜花園町方面を歩き、晴れたら難波、心斎橋方面まで出かけることが多いです。縁もゆかりもない街を、その日の感覚で方向を決めて街に出て室に戻る撮影はずっと変わりません。

撮影で経験したり学んだりすることのひとつに、どこに行っても、売るためでない写真を繰り返し撮るにはやっぱりお金がかかる、と云うあまりにも当たり前過ぎることがあります。こうしてお金から自由になることはできません。だけどそんな風にどこまでもまつわりついてくるお金から自由になりたい……

人それぞれ「時間」「体力」「お金」の限りがあるから、何かしらの縛りが必要になってきます。この縛りをなんとか活かせないかと、日々出来ることを考えてます。簡単に云ってしまえば、自分がやれる範囲でとことん「自由」にしたいと。息苦しくなってしまわないように。だから「お金」じゃないのよ、と時々自分自身に云いたくなります。