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Tuesday, November 19, 2024

......Yoshina,Takehara-shi





日曜朝十時半、梅田からJRバスで五時間半、広島駅に向かい駅中の花屋でお供え花を買ってチンチン電車に乗って比治山へ。あれからあっと云う間に五年が経ち、気づけばお盆と命日のこの時期はいつも墓参り。気持ちも落ち着きスッキリします。翌朝、広島で撮影をして昼からかぐや姫号と呉線に乗り継ぎ田舎の小さな古い駅へ。そこから一寸歩いて誰も居なくなった小舎の空気の入れ替えに行く、も誰に頼まれた訳でもなく、好きで続いています。

同じく、つい最近のような昔、暗室で印画紙を焼くのに、中々いい感じになりませんでした。1997年か98年くらいから20年は続いてきたこう云う作業が実は向いてなかったのかと、遅ればせながら軽く病みました。それで少し前「よし、じゃあこれ、やめよう」と、最終的にはインクジェットにして、精神的にも(経済的にも)負担が少ない方法に変えてみました。

だけどインクジェットでプリントした写真は滑らかで表面的な感じがして、もっとゴツゴツした物質感が欲しくなります。撮影自体はずっと変わらずフィルムで、写真の撮り方も相変わらずファインダーをよく見て撮っているのではなく、出会った瞬間いきなりシャッターを1コマ何度も重ねて押すような撮り方です。スキャンするフィルムは暗室作業の際に水を通って、現像ミス的なものの上に乗っかる粒子とスレやキズや汚れ、水滴まで意識的に残すようになりました。

より物質的に写真に接触するよう、手垢のついた複数のフィルムは、幻影でなく具体的でリアルな実物感を強調することで、かえって抽象度が高まっていくような感じがします。抽象と具象の逆転した見え方や、考え方に興味を持つようになりました。フィルムを使って記録したイメージとそれを妨げる要素としてのノイズは、一見具体的っぽくも抽象的な要素がある、こんな不思議なバランスがおもしろくて続いています。

Saturday, November 2, 2024

……Nishinari,Osaka

 


11月、ひさしぶりに岸和田の額屋さんに写真を持って行き、昨日も今日も部屋の片づけ。押入で十年二十年と眠っている写真をどうするか、最初からそんなものなかったと諦めるか、掃除をしながら、体だけでなく、心や気持ちも動かすことが大切なんじゃないかと考えます。

おなかいっぱいだと何も食べたく無くなるし、ある種の空腹感、渇望感が心を動かすための鍵なんじゃないかと。また写真を水に通して干して、破って貼って、剥がして切って、再度貼る、「アレ」がスタートします。年がら年中、誰に頼まれたわけでもない、当然不合理で無駄の多い制作をして過ごしています。何となく全体像みたいなものが見えてきそうな手前あたりまでは楽しいのです。

新たなシリーズをつくりはじめたころは自分でも思いもよらないような「イメージ」やら「一枚」やらが浮かび上がるたびに心が躍ります。そのうちだんだん枚数が増え、フィルムシートやドローイング、コラージュ置場の棚が埋まってくると「これ以上、増やすとまずい」と云う気持ちが先立ち、ブレーキを踏みます。自分がどん詰りに入るパターンはいつもこれです。

わたしはもう一寸で大阪の西成と阿倍野の境目の西成側に移り住んで九年になります。四十歳の年以来、ずっと同じこの3DKの部屋で一度も引越しせず(暗室は一度引越した)、案外長く同じ町に住んでいます。いつまで自分はここにいるんだろうと、そんな疑問が時々頭をよぎります。だけど先のことはわかりません。わからないまま九年近くの月日が流れたので。

Thursday, October 10, 2024

……Osaka




今週も水曜、岸里駅から大阪メトロ四つ橋線の本町駅で降りて、靭公園方面へ向かいました。先週からの歯科通いは取りあえず二回で完治しました。 最後の消毒前、「もう口の中は虫歯ゼロ…」先生が呟いた瞬間、久々にはしゃぎたくなりました。 しばらく痛んだ一本の歯がなくなっただけで、前は沁みながら食べたアイスの味が、凄く甘くておいしく感じるけど何かまだ違和感あり。人体の不思議を感じます。

制作中の来月末参加するグループ展の写真を破ったり貼ったりしていると、次に貼りたい写真が見つかります。このシリーズの写真を撮っているうちに、次に撮りたいものが見つかります。つくりたいことが一寸づつ増えていきます。

わたしは色々と理解して組み立ててつくろうとすると全然ダメで、制作過程がどうであれ、いつも思うのは最終形を想像しても、まず予想通りには上がらないことです。どこかに予期せぬ箇所が現れます。その予想通りに上がらない点が最大の魅力でもあり、その都度先読み対応に迷いが生じます。そんな迷いは拡散してキリがありませんが退屈はしません。

今回展示予定のアブストラクトシリーズでは、そういった状況を積極的に呼び込み、一本のラインを完成させないまま継続することを考えて、作品を提示したいと思います。


Wednesday, October 2, 2024

......Osaka


暑い暑いとぼやいているうちに、気がつけば十月、段々涼しくなってきました。水曜、夕方五時過ぎ靭本町の歯医者。一寸前、奥歯の詰め物が突然取れ、ずっと放っておいたら頭に激痛が走るので、教えてもらった靭公園前の歯医者に行きました。

ひとつのことが別の何かにつながっていく感じというか、現在暮らす町の界隈で、時々歩く旅のどこかでも、カメラを手に目を凝らせば、あらゆる場所にずっとそこに在るかのような「キズ」「サビ」「ヒビ」「カビ」「カケ」「ズレ」「ケズレ」「ヨゴレ」「ハガレ」「シミ」「ヘコミ」「アタリ」、、、放置された痕跡やボロい色の隙間に身体が反応して写真のスイッチが入ります。それら大半は誰にも気づかれることなく、どこかに隠されたり、無関心と時間の中に生じたエラーやロスやノイズとして世界から消えていきます。偶然、わたしはその瞬間、フィルムを使ってイメージを定着したいと衝動に駆られ、モチベーションになます。

理屈ではなく、いまコントロールしきれないまま、浮き上がってくる写真を自分ではどういう風になるか分らないまま、行き当たりばったりのプロセスの中で、関心が拡散してキリがありません。キリがないけど思い込んだ意識が壊れ変化していくことで、自分の中の縮こまって空回りしていた曲線が伸びてゆく感覚があります。

コントロールできないこととは、外部に在るものを受動的に取り込む行為や、見ていなかったものが写り込んだり、予期せぬことを積極的に呼び込み浮かび上がってくる写真の「現象(ゲンショウ)」のことについてです。深く考えずに、ただ遊んでいたら「オッ」と思うようなものができた、そういう感覚のことです。

Sunday, September 8, 2024

......Nishinari-ku



まず使い古したバスタオル(暗室用)その上に、第一現像液(D-76/ミクロファイン)、停止液(酢酸水)、発色現像液(C-41)、漂白液(C-41)、定着液(fix/C-41)、それぞれ1リットルずつ計量カップに5つ並べます。液温はフィルムによって若干変えなければいけないので、ほぼ勘です。あとは暗黒トイレで撮影済みフィルムを一気にリールに巻いてタンクに詰めたら、ネガ現像(白黒)+ ネガ現像(カラー)の流れで行います。

第一現像後にフィルムを取り出し光に当てる際のあて方による光線ムラや、発色現像と停止が済んで像が黒く浮かびカラーネガ現に入ったら、おまじないとして歯ブラシでスクラッチします。あと現像ムラは魅力なので気泡がついたりムラが起き易いように撹拌はしません。ネガ 現+ ネガ現の工程が終わりガッツリ水洗したら、水滴感も魅力なので、乾いて跡になるように、スポンジで拭き取らずビチャビチャのまま、その時、隣り合うフィルムの乳剤面同志がぺタッとくっつき重なり合わせたらフィルムクリップで重さをかけて吊るします。再度、ホコリが乗り易いように霧吹きでたっぷり水やりして干していきます。

結局どん詰まり感から、いろんなやり方をやって、やらなければならないことをせず、関係ないようなこと、一見意味がわからないことばかりに時間をつぶし、結果やっつけ仕事から受ける赤面するほど意外な「現象(げんしょう)」が隠されていたりする、こんなやり方に辿り着きました。意味が絡み出すと同時に消え去る繊細な部分や、かつてどこかで見たことがある光景は、全て反射的感覚的に興味を覚えるかどうかです。

写真(作品)によっては10年くらいまだ途中みたいなものと、30秒で終わる時もあったりします。本当に、そん時そん時一瞬で終わる時の方がキレいだったり、カッコいいと思う場合が多い気もします。また自分の都合のいいように、状況を直接的に換えて思い込みと衝動を繰り返す行為は、アレコレと解釈して、写真と対話しているみたいです。だから必ずしも正しくなくていいと思うんです。

Thursday, August 29, 2024

......Osaka




金曜日、甲子園決勝。京都国際が延長タイブレークで初優勝(ありがとう21は惜しかったです)。今夏の甲子園、投手力と守備力の高いチームが勝ち上がって「守りの野球」を掲げたチームが多かったです。僅差のシビれる好ゲームが特に印象的でした。

高校野球を見て別に撮らなくても、何の役にも立たない写真を、作品がつくりたいと云う欲に動かされて真剣に撮っています。カッコいいと感じるボロやグッとくる痕跡は写真のスイッチになります。ボロい痕跡なら何でもいいと云う訳ではなく、これは今に始まった感覚でもないので、生理的な好みと云えばそれまでです。そんな感覚は変化も発展もなく、自分の中に在り続け、モチベーションにも繋がっています。

水曜、ネットで注文したC-41現像キットが届き、早速カラーネガとポジフィルムの現像にも挑戦してみます。思えば、ずっと写真は現実を写すことだと思い込み、その考えは好きでしたが、正確に撮って正確にプリントに落とし込んで出来上がる写真に、いつまで経っても居心地の悪い息苦しさも感じつつ、不得意で長年迷走していました(います)。

近年より細密で鮮明に、素早く簡易的に目の前の光景を記録していく高解像度写真を横目に、ついにはAI(人工知能)まで駆使して作品をつくる時代に……なんてもう全然「向いてない、やりたくない、もういいや」と思いながらも、変わるもの、変わらないもの、昔も今も「ある」と云うことが当たり前じゃないんだなとよく思います。必需品だったものが必要としなくなることもよくあります。

そんな時、どこかで見つけた誰かのフレーズ(ことば)を想い浮かべ、だけどどうしていいかわからないまま、得意の思い込みが発生したら、どうしようもないから思い切って変えてみようと、頭の中で縮こまって絡まって空回りしていた曲線がちょっとずつ伸びてゆくような気分になりました。相変わらずできることは限られているから、その中で方法や考え方に負荷をかけながら、途中を簡単に完結していかないように、延命作業を探して……今もこんな感じでやり過ごしています。

Monday, August 12, 2024

......Nagarekawa,Hiroshima

 



水曜朝、大阪駅JR高速バスターミナル。夕方広島駅到着。駅中の花屋で青と赤のバラのドライフラワーを買って、チンチン電車で比治山へ。今夏も一寸早いお盆の墓参り。比治山を散歩しながら街路樹で鳴くカラスを見ると何となく懐かしさがこみ上げてきました。

木、金曜と連日猛暑日、湿度も高い。自分は寒さに弱く、暑いのも弱いと思っていたけど、今年の夏は一寸元気かなと感じます。かねてより計画した地元流川界隈の撮影の続きも続けました。写真を撮るのも散歩するのも楽しい時もあれば、そうでもない時も、低迷しているなあとしみじみ思う時もあるけど、でもたぶん続けることに意味があるのだと。続けていくことがエラいとはちっとも思わないけど、続けていないと味わえない「まぐれ」みたいなのは多いです。飽きないように燃え尽きないように、だらだらぼちぼち歩きます。

月曜(振替休日)、高校野球。甲子園「ありがとう21」は二年連続初戦勝利!いい投手戦でした。昨今の高校野球にはクーリングタイムと云うのがあるけど、寒暖差疲労は大丈夫なのかしら。三十六歳の時、高校球児(三年生)の二倍の年になったのかと思ったけど、あと五年で、三倍。集中して野球を見ているだけで疲れてしまいます。夕方、ブローニーフィルム現像18本。


Sunday, July 28, 2024

......Osaka



土曜昼、この夏も西に向かって応援してました(web観戦)。連日の猛暑のなか選手、えんじ色のタオルにガタイのいい坊主頭の応援団、ブラスバンド、ダンス部、先生、、、見事夏2年連続25回目「ありがとう21」バンザイ!

日曜夕方、道が曲がってグネグネした袋小路みたいな場所の、何かわからないけど造形が面白い、狭くて入って行くところ、何かわからないけどたのしい、と感じて身体を傾けて大汗かいていました。別に入って行かなくてもいいけど、何となく入って行った方が撮れそうな気がする、こう云う場所が大阪にもけっこうあります。

コマーシャル系やドキュメンタリーのように、社会的な文脈で成立している写真を撮るなら、被写体に付随している意味を読み解けばいいのですが、自分のようになぜこれを撮ったかと云う動機が存在しない(ように思う)写真に対して、自分が語っても、それは正解ではないし、信用なりません。写真について話す言葉はとても難しいです。

コンセプトなんてなくて、無秩序で最終的に決めているものもなく、何を撮るか、どこで発表するか、その為の資金をどうするか、そう云うことは全部自分で決め、ずっと「自作自演」みたいな行為がえんえんと続いています。簡単に言葉にすることができない写真の「時間と空間」をそれだけで完結させないように、普段からできるだけ非効率的で非合理的な行為の続きを、続けて行く、たぶんそれしかありません。そして自分の意識(言葉)や写真の勘みたいなものが変わってゆくことを感じたいのです。

Sunday, July 7, 2024

......Tsuruhashi,Osaka

 


木曜昼、大阪気温三十五度、連日猛暑日。梅田で待ち合わせして鶴橋に移動し、サムギョプサルで誕生日おめでとう。マッコリでしめました。

土曜、普段は日常のどうでもいいようなことの積み重ねで、散歩して撮影して家事をして仕事してという、一日をくりかえします。十代のはじめ頃「人は頭より足から衰える」と鉄人(アマチュアマラソンランナー/トライアスロン選手)の祖父に教えられたことをふと思い出します。今もけっこう記憶に刻まれています。

記憶していることの理由は、なぜ今まで忘れずにいるのか、それを考え出すとキリがありません。何十年前の自分と現在の自分、昨日の自分と今日の自分、自分のことを云いだすと、矛盾がでてきます。様々な矛盾があるにせよ、昨日写したフィルムを眺めつつ、とりとめなく共通点を思い浮かべます…イメージの堆積、キズ、シミ、放置、不要物、雑多、変色、消耗、、こんなような言葉が浮かんでは消えていきます。ボロければなんでもいいと云う訳ではありません。反射的にカッコいいと感じるボロには心がとろける思いがします。生理的な感覚と云えばそれまでですが、その感覚は、ずっと自分の中に在ります。そして撮影を重ねて新たに生まれたカタチがリズムとなって、自分の認識はこれくらいまで変えられるのかとも思い始めました。

わたしの場合、観察や状況を客観的に見定めることとは違うので、写真を撮りたくなる行為、無性に作りたくなる衝動を大切にしたいのです。好き嫌いを越えたところで、その気にさせられる扉、壁や柱の質感は云うまでもなく、ポスターのはがれ具合、看板の傾き、電線のたるみ具合、ビニールシートは薄汚れた透明とブルー、路上の植物と寝ころぶオジサンの身体、通りすがる男の後頭部、錆びたトタン屋根とまったくほったらかしでグッとくる経年感たち、そんな光(影)のカタチ(リズム)を捕獲したら「早く室に走って帰って、現像してやるぞ!」とモチベーションが上がり、気力と体力に合わせた生活につながっていきます。

Monday, June 17, 2024

......Shin-imamiya,Nishinari

 



金曜夕方と日曜昼、南海電車新今宮駅周辺で撮影。暑い日はできるだけ日陰を歩きながら、今もフィルムが好きでやっています。遅ればせながらいろんなフォーマットのカメラで撮ってみたくて、ローライコードと云う古くてリーズナブルな二眼レフでも撮っています。久しぶりに胸がキュンとする渋い中判カメラです。

これまで20年くらい1台(マキナ67)だけでやってきた反動というには大袈裟ですが、今一度カメラでも変えてみるかと使ってみたローライ35の小型軽量で目の代理として身体の一部に馴染むタイプに続いて、ローライコードは写真を撮影してない時間でも、気分的にリラックスしたい時にも触りたくなるような6×6。長方形の箱を両手で包み込むようにして構え、その中に光を捕獲する、そんなイメージです。

横着なわたしは、フォーカシングスクリーンで画角をしっかり確認することなく、大体の位置から1コマ複数回重ねてシャッターを切ることが多いです。撮影までの歩行やいくつかの手順を繰り返して、何回も押すシャッターから聞こえるそっけない音は、興奮しがちな頭を冷まさせます。うまい写真やいい写真を撮ることより、モチベーションを維持するための、負荷をかけたり変化をしながら、ああでもないこうでもないと何十年も写真を続ける方がはるかに難しくも面白くもあります。

Monday, June 3, 2024

......Shinsaibashi,osaka



ここのところ、1950年に発売させた二眼レフカメラと1980年代には期限切れのブローニーフィルムを使うようになりました。雨の日は玉出〜花園町方面を歩き、晴れたら難波、心斎橋方面まで出かけることが多いです。縁もゆかりもない街を、その日の感覚で方向を決めて街に出て室に戻る撮影はずっと変わりません。

撮影で経験したり学んだりすることのひとつに、どこに行っても、売るためでない写真を繰り返し撮るにはやっぱりお金がかかる、と云うあまりにも当たり前過ぎることがあります。こうしてお金から自由になることはできません。だけどそんな風にどこまでもまつわりついてくるお金から自由になりたい……

人それぞれ「時間」「体力」「お金」の限りがあるから、何かしらの縛りが必要になってきます。この縛りをなんとか活かせないかと、日々出来ることを考えてます。簡単に云ってしまえば、自分がやれる範囲でとことん「自由」にしたいと。息苦しくなってしまわないように。だから「お金」じゃないのよ、と時々自分自身に云いたくなります。

Saturday, May 11, 2024

......Kishinosato,Nishinari-ku


 

今晩、レコード棚に向かって立てかけた何枚かの未完成コラージュ(写真)の束の、その中の一枚を不意に引っ張り出して、バリッと表面がはがれる音、それを見た瞬間、これはイイと思いました。何がイイのか、そこに具体的な意味は全くありませんが、そういう瞬間がたまにやってきます。そん時の自分自身の状態、気分、タイミング、また何かしらの偶然が交叉した時に。

ともかく一度終わった…と思ったもの(作品?)が棚にもたれかけている間に経過した時間(保留)と共に何となくこちらの味方になってくれた感じがしました。そうして写真の断片と写真の上でまた何かが動き始め、再び切った貼ったがスタートします。「これはイイ」とふと思って、何がどうイイのかハッキリしないことが多いけど、たとえば自分が他の人の作品をふと見て何かイイと思う時にどこか似ています。これはすごく簡単なようでなかなか複雑な世界のようです。わたしに限って云えることは、イイと思う時、まず瞬間的にそう感じてしまうのであって、決して考えることによってそこに至るものではない気がします。

「イイ」と思うものは、どうも云うところの努力とか一生懸命とか責任感といったことの隙間をスルっと抜けた向こう側にあるようなものです。うまく言葉に云い表すことができないけど、一見適当で、無責任なものと、この「イイ」はどこか関係している気がしています。まず自分がイイ作品をつくる努力をしたところでそう簡単にできるものではないと、それはよくわかっているつもりです。いずれにせよイイと思うもの(作品)は何か意味不明の隙間があって、曖昧で不明瞭な部分を残し、いつも気まぐれに移ろいます。


Wednesday, May 1, 2024

Tengachaya,Osaka



今日から五月、雨。 最近中古で買った七十年前のローライを使ってます。二眼レフは人生初で、それと進行の滞っていた数十冊のダミーブックやブックカバー、レコジャケの制作を少しずつ進めています。それぞれ内容は様々でも決まったものから順に一つずつ終えていければいいんだけど、この二、三年、自分の怠慢から少したまり過ぎていました。何事もたまり過ぎると息苦しくなってしまいます。先のことはできる限りカラッぽ状態を望むのは自分だけかどうかはわかりませんが、約束は極力早く果すべく次々と消去していくのが理想的でも、これがなかなか難しいのです。

歩行中や制作中、入浴中とか何らかのタイミングで無用なイメージが浮かぶこともあり、いつもスッと浮かんでポッと消え去ります。これが結構気になり、無用は承知の上、忘れた時(こと)のもどかしさはたまりません。フッと意味もなく湧いたイメージは大切ですが、だからといってどうあがいてもママならぬこともわかっています。作品はその内容やタイミングによって予想以上に早く出来上がることも偶にあっても、些細なほころびから妙な展開に陥り、ものすごく時間がかかってしまうことがあります。ある程度まで詰めたにもかかわらず、思わぬ事態から丸ごと消して流れてしまうこともあります。

撮影した写真(印画紙、印刷物)を切ったり、貼ったり、画いたり、剥がしたり、には確かに何の意味もなく、意味はなくても、その中でごく個人的に無意味だけど、何かしらの「作用」があることも感じます。これはわたし自身のこれまでの「記憶」にもどこか似たものがあると、最近はそんなことをよく思っています。淡々と写真を撮り、やぶり、重ねて貼り、、、そんな日々が過ぎていき、目的は特になくても、意味が優先の作品には自然と興味が薄れてきました。以前から、自分にとって写真を写すこと、つくることの明確な意味や目的とがピタリと重ならなくなってからは、考えることが重要になった気がします。

Sunday, April 14, 2024

......Tamade,Nishinari-ku

 


日曜、良い天気。晴れの日は一万歩、雨の日は五千歩、 気のりしなくても外に出るとそれなりに歩けます。そして今、目の前に在るにもかかわらず、誰からも気づかれてない様に見える「表面」に、自然と身体が反応しています。多分、そこら辺に自分自身が考える理想的(?)な写真の在り方がくっついている、と思っています。

人がいらないとしたもの、本当はそっちの方に本質的な何かが在るんじゃないかと。誰かが意識的に捨てた部分に、自分が探しているものが実は在り続けたりする気がして、人がものを捨てる判断をした瞬間がおもしろいと思うんです。わたしは自分にとって都合が良い部分だけ「撮る」ことを続けてきて、都合が良い部分に何か意味が在るんじゃないかと、そんな風に考えてきましたが、実は違ったりする、とそう考えるようになりたいと思っていたら、いつの間にかそうなりました。

周囲の人も(自分も)、一見変わっていないように見えても、ゆっくり変化しつつ、変化しないものなんて無いようです。進化したり退化したり、体調や方法や組み合わせ、かかわる人で一寸ずつ絶えず変化していることを実感します。おそらく100の要素があったとしたら2つ、3つくらいが、日ごろ自分が見えてる程度で、100のうち5つ、6つくらい変化したとしても、変化として認識するのは難しいのかもしれません。本当は何となく変化していることに勘づいていても、なかなか言葉にすることが出来ません。たぶん、100のうち50くらい変わってきて、はじめて、「あっ変わったわ…」って認識することが出来るんじゃないでしょうか。時間の経過とともに、そんな心の動きが強く関係していると思います。人間、一寸先は何が起こるか分りません…

Thursday, February 22, 2024

......Taiwan



六日(火)大阪から飛行機で夕方、台湾桃園国際空港に到着しました。台湾へは去年の六月以来です。イミグレを通過したら、ATMで二週間分の両替とSIMカードを購入し、ヨーヨーカーのチャージも出来たら、その足で龍山寺横の宿に向かいました。

翌朝は、台北で三十年暮す叔父に会うため台北101方面へ地下鉄で行き、叔父夫婦の会社で再会していろいろと話ができました。その後夕飯に連れて行ってもらった遼寧街夜市の老舗は、私が2013年台湾初渡航時にも訪れた記憶のある円卓スタイルの海鮮料理店でした。その二階で壁に貼り付く薄汚れたポスターを眺めていたら、薄くて旨い18天台湾ビールが進みます。ジワジワと記憶に刻まれていた過去と今の思いがグッと後押しされるような気持ちになりました。店を出て小雨のなか夜市周辺を三人で散歩して握手で別れた後、この旅の半分は果したような気分になりました。

それからは、いつもの台湾北部港町の基隆へ向かいます。坂の途中に在る民家のガレージ兼倉庫を改造した民泊で今回も二週間のひとり合宿。朝からパンパン洗濯して、散歩、撮る、珈琲、画く、散歩、珈琲、、、の繰り返しを過ごせる環境です。地元の人によれば一年の三分の一は雨が降っていて雨港と呼ばれる町もほぼほぼ毎日が洗濯日和、散歩日和、撮影日和でした。

途中、基隆周辺の山の斜面にはりつく小さな家がひしめく細い路地の迷路を縫って登ったり、台中までトコトコ時間かけて區間車を乗り継いだり、風光明媚な場所にはほとんど興味は湧かなくても、台湾のローカルで持ち前の方向音痴を発動して歩いていると、ときどき怖ろしいぐらい日本によく似たシーンに出くわすことがあります。日本人旅行者の私にとって、あまりにも日本の地方のかつてのそれを見ているようで、基隆市街地や台北路地裏、台中市場あたりのその風景はどこか似ていて、全く違うというか、懐かしいと云えば懐かしく、自分自身の中にヒタヒタと染み入ってくる何かがあります。

これは過去に対するノスタルジーとかでは全くなくて、懐かしさを受けて心が動き、制作衝動みたいなものを刺激させる、その為のきっかけとして、この「懐かしさ」は大きいとしみじみ感じます。そう云うわけで眠くなるような港町でも、ローカルな路上でも、もはやなすべきことは、街を行ったり来たり撮影して、喫茶店や宿で写真の上に線を引く、ただただペンでカタチをとる手作業をする、こんな旅がまた続いて行きますように。シエシエ、ツァイチエン。

Sunday, February 4, 2024

......Takehara, Hiroshima

 


先週、竹原市の吉名駅に広島駅からでなく三原駅経由で行きました。大阪から広島に寄らず竹原に向かうのなら新幹線で三原まで行ってそのまま乗り継ぎ、電車にゆられながら行く方が早いことをはじめて知りました。こうした地理感覚の混乱みたいなことは、府内の移動にもよくあります。思いこみというのは気づきにくいものだなあ…と。

ふだんなるべく身軽で気軽に生きたいという欲求が強くても、時々向かってしまう、なんとも思い入れのある(ような)場所があります。そこには白い小舎とグレーのプレハブと錆びたビニールハウスが在ります。2006年秋東京から住民票を移して2008年まで3年間をひとりで暮した思い出の地で、その後も大阪に越すまでは毎週木曜に広島市内から車で通っていました。

そこのプレハブとビニールハウスでの、間に合わせ仕事、やっつけ仕事、在るものでつくった「カクカクシカジカ」を、そろそろ20年近く経つので発掘するような気分で、ついでに頭の中も整理してきました。こっちに何かを主張してきたり、想像力をかき立てるものではないけど、ただそこに在り続けた「カタチ」が“今”の制作衝動を刺激してきます。

なんだか沢山の線が折り重なって騒然としている「ラクガキ」、無愛想に見える「カタマリ」、ほったらかしの光景に、否でも応でも自分自身がこの20年で変わってきたことと変わらない(変われない)未熟さも同時に痛感させられます。そして今も昔もやっぱりPICTURE、これからも出来るだけ頭を空っぽにして続いていきたいところです。

Sunday, January 7, 2024

......Kishinosato, Osaka




あけまして一週間。2024年スタートして地震とか色々怖いニュースがありますが、ボチボチ歩いて現像して、カクカク貼って画いたり…相変わらず過ごしてます。

普段日常生活ではレコードで聴く音楽も古本や写真集で読む本も、手にとった時はバラバラでも、繰り返し聴いたり捲ったりするうちに、それらは段々くっついてくる感覚と云うのがあります。それは内容そのものと云うより、「質感」それに反応している気がします。やっぱり「質感」は重要で自分がやりたいこともそれを意識しています。

同様、偶然に会いに行く感覚も大切にしたいです。むしろわたしにとってはすべて偶然の産物みたいなものです。ただ偶然と云っても、自分の中にある種の必然を持っていないと偶然には出会えないので、それは一つや二つの必然じゃなく、経験や身体の中にあるいろんな必然みたいなもの、それをベースに偶然に出会う感じです。

その時、判断できなくても、この判断保留の間のような時間はすごく大事なポイントだと思います。これはダメだと思ったものが、月日が経ち見直したら、ふと流れが見えてきたり、既に着地していたりします。なので目的やコンセプトが曖昧でも、無秩序で中途半端なものでも、むしろ一見無駄に思える、そんなことの繰り返しの中に何かを感じます。

言葉に中々できないだけで漠然としたもの、間違ってしまったこと、様々な記憶の断片が意識するしないにかかわらず関係しているに違いありません。今すぐ答えが知りたいわけではないので(答えがあるかどうかもわからない)、なかなか上手にいきませんが、そう云う時は散歩したり、途中で珈琲飲んだり。2024年もなるべく身軽に気楽に生きたいです。

Sunday, December 31, 2023

『2023』

  


気づけば大晦日、午後2時過ぎから西成三角公園の越冬闘争へ。推しのラッパーのライブはもう何年も中止になっていますが、撮影はします。帰りしなスーパーで、春菊、豆腐、キャベツ、豚肉、蒸しそば、もやし、ねぎ、チーズ、オタフクソース、鰤の刺身、サラダ巻きとビールを買って、12月になると毎年のように時間が経つのは早いなあと思います。

この一年を振り返りながら…「今年はあの国に旅したい」「こんな仕事もしてみたい」と思いながら、一年で自分ができることはほんの一寸(ちょっと)しかないと、仕様がないからどっかであきらめます。やる気がなくても、仕事をしたり、家事をしたり、散歩をしたり、習性によって頭と体を動かしているようなところがありました。

来年もこれまでの続きをひとつひとつやっていくことから。そして目の前にちらつく手の届きそうにない欲求、それを自分や他者を傷つけることなくあきらめたいです。あと息苦しい原因をひとつひとつあきらめて、自由を獲得したいです。また不必要な我慢をせずに、持てあます情報を見極めて、変化したいです。そうしてあきらめても、あきらめても、あきらめきれない、変わらない(変われない)何かが見えてくるはず。

2023年ありがとうございました。よいお年を。


Tuesday, December 12, 2023

......Nanba,Osaka


 

最近嫌いなもの撮りたくなります。以前に比べてものに寄りがちなカメラワークです。どんどん寄って、足元を見てしますのが今のスタンス。写真を撮る者としては撮る意欲が無くなるのがまずいので、そう云うときは、カメラをポケットに大阪の街に繰り出します。

ただ撮っているのは被写体ではなく「写真」です。写したいのは「現実」ではなく「写真」で、自分(カメラ)と被写体の間にある「写真」を撮っている感覚です。ふっと解放されるように、嫌いなものにもカメラを向けて寄っていきます。感情と矛盾するような行為へと掻き立てられる街が大阪です。

昔は気にもならなかった被写体とファインダーとフィルムのズレはいろいろあって、こうした変化やズレにたいして、敏感な時もあれば、そうでない時もあり、受け止め方には時間差があります。「嫌だな」と思う自分と、一寸(ちょっと)のめり込んでいく自分の両方が存在しています。

カメラといっしょに歩くとき、人が重なりひしめき合う繁華街にいると息苦しかったり、ぞくぞくしたり、嫌いなものに引き寄せられ、それが面白さへと転じる、相反する感情は紙一重だと思います。今はここ大阪がホームタウンみたいでもあり、生活する上で必要な一つの場所になっているので、どこかに出掛けて大阪の街に戻るとほっとします。

Saturday, December 2, 2023

......Tokyo



1年ぶりにグループ展のため東京に行ってきました。これまでの展示では個展・グループ展の差はあったにせよ、写真を「切る」「貼る」しての展示ははじめての経験でした。便宣的に「コラージュ」という言葉を使うことはあれど、自分の作品に関して「コラージュ」と言い切った途端にこぼれ落ちるもの、割り切れないものをまだ感じます。

そんな経緯から今回の出品タイトル『Untitled』をより、納得のいくタイトルに置き換え、写真の「裏側」部分と「端」の余白という意味で、構成した二要素の「Back」と「Edge」を英語表記して「Back & Edge」とも考えましたが、よく見ればそのそれぞれが紙片(断片)を貼り合わせて構成した、飽くまでも「写真」に過ぎないのです。中心と背景といった関係も見当たらなく、全てが中心であると同時に背景です。制作において、自分の中で「表/裏」と「中心/端」が等価になるのは、手を加えることで見ることができる「表面」に隠された「裏面」です。また何かが潜んでいる気がすることで、穴の開いた頁を眺めながら『Untitled』の中に考える何かがあるのかと、そんな感じに落ち着きました。

何だかまだまだまとまりが悪いのですが、自分自身の想像力はちっぽけで限られています。今回もレクトヴァーソギャラリーの方には自分の想像のはるか上の展示アイデア、インスタレーション的要素、思いもよらないヒントや手がかりをプレゼントされた気になりました。毎回感謝です。これからも拙さや欠点をできるだけ活かせるように取り組んで行きたいです。

また今日も作業机には、いつ取りかかるでもなく取りあえず私家版写真集から選んで破り、浸けて、干したパリパリ(頁)が積み重なっています。これが積み重なった意識や無意識の束にも思えてきます。まだ切り取っていない、それらは何らかのタイミングを切っ掛けにスタートして、「今」のありのままへと繋がっていくように…

Monday, November 27, 2023

......Nihonbashi, Tokyo

 



東京・日本橋 茅場町のRECTO VERSO GALLERYで開催されるグループ展に参加します。

今回の作品サイズも大まかに決められていますが、テーマに関しては特別な制約はありません。考える前に写真の上に切り抜いた写真を配置するアナログな自主練をしているうちに、だんだんと写真の居場所が変わって来ました。

撮影した写真のプリントと制作した写真集の頁を素材として、コラージュした5点を出品します。お近くにお越しの際はぜひお立ち寄りください。

Sunday, November 19, 2023

......Yoshina station, Takehara

 



こちらの空もよい感じでグラデーションする季節になりました。今年も11月17日と11月18日はひろしま。高速バスの車窓から景色をチェック。こうして一年に何度か墓参りに会いに行けることで気分もすっきりします。

翌日、日帰りで竹原へ。行きはかぐや姫号(広島→竹原)+呉線でのんびり移動するのが楽しいです。帰省(旅行)中は一日二万歩くらい、休憩多めに歩くようにしています。足の裏全体に体重を分散するように、一寸内股気味(?)のニューバランスを意識して快適、そんなに疲れません。あとはいつも通り福屋広島駅前店の「ちから」で中華そばも食べました。

十年一日と云うか、毎度同じ店の同じメニューを注文しています。前に読んだ本でこうした傾向の人間は対人関係が苦手な人が多いと書いてありました。食べ物だけでなく、年中同じような服装の人もそうらしいです。人生は選択の連続だから、何でもかんでも選んでいたら、それだけでくたびれます。来年はもう一寸(ちょっと)ひろしまを歩きたいです。


Wednesday, November 1, 2023

......Tengachaya,Nishinari


もう11月。近ごろ路上を撮影していると時間の経過とともにディテールが頭に入り込んできます。次第にうまくいっている部分をずっと持続しようとする欲が増してきます。そうなるともう先には進めません。写真は情けない方向へどんどん進み出します。そう感じるとまた一旦放置となります。そして、ボツにしたプリントの「切れ端」同士のいくつかの白い部分を線で繋ぐことが浮かびます。一瞬「裏側」と重なり、うまくいきそうな間が訪れます。仕事部屋の押入れに「わからないまま」放置されている写真の束の放置する目的は単にリセットにあります。

何年か前のある日、写真の領域から出ることが出来ないわたしは、写真を破り捨てるような音が聞こえてくるイメージで、実際に自分の写真(プリント、写真集)を破って貼って四角い小さな数点が出来ました。なぜ「切り」「貼り」なのか分らないまま手応えだけがすこし残り、以後時折同じような作品が現れます。根拠のない手応えだけを道標に『端と裏』シリーズは弱々しく動き始めていきました。発端はいつも些細なことから静かに始まります。

必然性に突き当るには気の遠くなるような継続と時間を要するのでしょうか…他の人に理屈で詰め寄られどんな批判に晒されようと「よくわからないけど続いていってしまう…」とつくり続ける以外、切れ端と裏側を払拭する手立てはないのでしょうか。

Monday, October 16, 2023

……Tennouji,Osaka



十月中旬、だいぶ涼しくなりました。着々と衣替えが進みます。このところも私家版写真集の切り貼り作業と晴れの日は一万歩を目指して歩きます。気乗りしなくてもポッケにカメラを入れて外に出るとそれなりに歩けます。

今朝も起きると陽射しが既に強く、昼から近所の天王寺公園を適当に散歩していると、目の前に転がっている誰からも無視され、ずっとそこに在るかのようなモノや偶然近くを通った人(物体)に手首に巻いたRollei35が反応します。そんな瞬間にだけ、あの日に連れ戻された気になって、子どもの頃に過ごした街で焼きついた断片的なイメージと重ねてみたくなります。

なぜ撮るのか、貼るのか、写真をしたいのか、と尋ねられた時の言葉は多分「この」あたりだと考えるようになりました。何十年前の自分と今の自分、昨日の自分と今日の自分、様々な矛盾があるにせよ、今日撮った写真を見返すまでもなく、わたしは忘れてゆくもののことばかり撮っています。忘れ去ることと引き換えに何かを得ているのか、それはなかなか見つかりません…

Saturday, September 30, 2023

......Nanba,Osaka

 



写真はスーと始まり、スーと終わってしまうので、どこかで引っかかったり、どもったり、扱い難さや失敗がとても大事です。変化に乏しい写真に飽きてしまわないように、今一度カメラでも変えながら色々試して、日記みたいなスナップショットが撮れる軽量のカメラも使っています。

コンパクトなカメラは慣れてくると、目の代理として身体の一部に馴染む感じで、撮影までのいくつかの手順も最小限の労力で、この瞬間と押したシャッターから聞こえてくるそっけない音は興奮しがちな頭を冷まさせます。フィルム装填や取り出しの不備から多重露光や反復してゆく中での予期せぬ間違いは、ラッキーなミスとして積極的に呼び込んで逃したくない部分です。

そんな露光に失敗して破り捨てられそうな写真という雰囲気の中には、複数の手振り、身振り、動作が交差する人がいて、風景が在ります。日常のちょっとした光景でも、バランスが崩れるととても不思議なものに見える時があります。わざわざ珍しいものを探すより、ちょっとしたバランスの崩れ方に注目した方がおもしろい写真が撮れる時があると思います。

今も写真という縛りの中で出来る限り自分の居場所をつくりたいです。写真の中にいることは=自由でいられることだとも思うので、なんらかの目標な目的が必要になってしまうと持続し辛くなります。くだらない事や無駄な時間も続いてゆくには必要で、いつも、つまずいたり引っかかったりしているから今もやってられます。頭で考えた訳でもなく、自然とそっちの方へ向かって行っています。スーと終ってしまわないように。


Saturday, September 16, 2023

...Nipponbashi, Osaka

 



ようやく朝晩の涼しさを感じる日が増したものの、まだまだ厳しい残暑が続いています。この夏は珍しく人が集まる路上を多く歩いています。「もう一寸正面に寄って突っ込もう」や「後ろに構えて待とう」と、そんな瞬間の心境はずっと同じで、振り返れば写真を始める何年か前までサッカーボールを追いかけた子どもの頃の土のグラウンドの上での青臭いイメージです。現在写真の撮影中どこかの街のアスファルトの上でオーバーラップさせてはダブらせてみる習性は、わたしの根っこのどこかで今もぺタッと貼りついたままのようです。

写真も構図、画角の前に、やっぱりどの距離にするかのポジションが一番おもしろく難しい点です。ここがサッカーとよく似てます。撮り終えて現像も終えたら、まず見るポイントは位置、距離間と距離感です。次、撮る時は「ここ」はもう一歩寄ってみようとか、「これ」はもっとあっさり引こうとか、一人反省会もしたりします。だけど次、撮る時もやっぱり、しっかり必死にあせっています。

今日も炎天下の大阪には、そこら中に人がいて(いなくても)、寄ったり引いたり、歩いては立ち止まって、汗びっしゃりでした。その時、その時しかないという感じで、そんな先のこともあまり考え(られ)ず、多分おなじようなところを行ったり来たりしているだけのような。実際はカメラ(レンズ)や方法を少し変えながら、もう流れでカクカクゆくしかありません。

Wednesday, August 30, 2023

......Ura-nanba,Osaka

 


八月下旬、猛暑日が続きます。例年以上に湿度が高いようにも感じます。路上の撮影を続けていると風通しのいい道とそうでない道があることに気づきます。それと、日々デジカメやスマホの性能が上がり、街で手軽に上手な写真が撮り放題の世の中になっていることも実感します。わたしは心の平穏を保つためにも、操作が面倒くさくて手間がかかる古いフィルムカメラを使って、今も写真を撮っています。全て手動式は心が安らぎます。この安らぎはデジカメでは得られません。

一寸重くて一枚撮るにも時間とお金がかかりそうな中判カメラ『マキナ67』と併用して、何年か前から小型の35mm『ローライ35』を使っています。このカメラ慣れてくると滅茶苦茶早く撮れます。最近のデジカメよりもしかすると早いと思います。コンパクトなボディにギュッと詰ったブラックペイント(黒い鉄の塊)を手首に巻いて室を一歩出ると、たちまち40mm(レンズ)の画を頭に浮かべながら歩きます。なのでパッとポイントを見つけた瞬間には、もう構図は決まっています。大体この距離に立ってシャッターを押せば、あぁなると直感的に分かってきます。

露出も今日の天気であらかじめ基本は合わせておきます。あとはその都度、影を見ながら角度を微調整するだけ...構図と露出が決まれば、ピントですがこのローライ目測式で眼でピント合わせられないので「カン」でよいのです。ファインダーも凄く小さくてよく見るとかそう云うのではないので、一寸先の空間にピントの層(実際裸眼では見えない)が在ると見立て、距離で合わせます。フレームに面積として入ってくる物体(部分)がハマればピントは獲得できます。被写界深度も日中そこそこ明るければfの5.6とか8で。そんな作業や用意をしながら歩いているわけですから、パッと反応した瞬間には、押すだけです。ところが今のデジカメやスマホは露出、ピント共に優秀なカメラ任せで、操作も凄く便利でレンズも滅茶苦茶クリアです。しかし自分の意図したのとは流石に違い過ぎる雰囲気に、上手く撮れ過ぎてなんか違うぞと、そんな写真が出てきたら、カメラ側に責任があると腹がたってきます。しかし手動式のフィルムカメラだと全て自分が決めた露出や距離なので下手でもなんでもカメラのせいにすることなく、自分のせいにして潔くあきらめられるのです。

こんな風に、街で通りすがりの一枚スタイル(撮って去る)は、前もって準備することで、写真の訓練がなされるわけです。そうは云ってもわたしの場合、極度の機械音痴で高確率で操作を失敗したり、不便なカメラだけに工夫もします。どうしようもない部分も含めて、足を使って、寄ったり引いたりしゃがんだり、被写体との距離、角度を気にしながら、瞬間的(自然)に頭と体も鍛えてくれます。こんな古くて扱いにくい不自由な写真を今も魅力的だと思っています。

Tuesday, August 8, 2023

......Hiroshima

 


日曜日(8/6)、今年も8時15分大阪にて黙祷。西の空に向かって平和の祈りをお願いします。

昼からお盆も近いので、今年はすこし早めに予定したお墓参りに帰省しました。馴染みの広島駅前の百貨店地下に在る花屋は休業していて残念でしたが、無事お墓参り、掃除一寸終え、清々しい気分で緑たっぷり比治山の小高い丘を歩いて下っていました。すると「あれ?なにかついて来る、気配が、、、」パッと振り返ると「なんだカラスか、、、」と思って歩き出すと、目の前を横切ったり、頭上や後ろをピョンピョンついてきます。「、、、なんで?」こんな経験なかなかありません。なにかものを言いたげな、まるで「遊んでくれ」「話ししようよ」と云ってついてきているようでした。

Sunday, July 30, 2023

......Nishinari,Osaka


土曜日、日中の最高気温三十七度(大阪・西成)、体感はもっと高い午後二時、夏は五年ぶりのバンザイ!うれしくて散歩しようと思ったけど、即引き返しました。普段、我を忘れるくらい夢中になってはじめて面白さが味わえることは分かっていても、日常生活でそういう状態になれることは中々少ないのです。

わたしの場合、集団行動をするのが昔から苦手ですが、集団の中にいる個々の人間の長所や短所を見ているのは大好物です。子供の頃から集団の中に溶け込みきれないから、なんとか溶け込もうとするのではなくて、ちゃんと距離を保ち、観察(人間ウォッチング)したり、ただただ傍観していることを「おもしろい」「たのしい」と思い込むことが得意でした。それを見ている他の人(大人)がどう思おうと気にせず、たとえ一文の価値がなくても、それも関係ありません。

今年の夏も感情移入して、ひとつのアウト、ひとつのヒットの行方だけでなく、選手の、先生(監督)の、チームの表情や、応援団、ブラスバンド、、、数字には表れないけど、いろいろな価値が存在するように見ています。スローガン「一人一役全員主役」の夏は五年ぶり二十四度目の甲子園へ、そして今年は春夏連続でうれしくて、陽が傾いた夕方から大阪西成を歩きながらいろいろな人に話しかけました、もちろん心の中で。「ありがとう21」

Tuesday, July 18, 2023

......Umeda,Osaka


  

月曜日(祝日)、梅田のビジュアルアーツ専門学校のギャラリーで「VACUUM写真展」を見に行きました。ずっと路上でストリートスナップを撮ってきている写真家のグループ展です。

白黒写真で統一された会場は何故かほっとします。埋め尽くされたストリートスナップが展示空間にびっしりと並び、人物を中心に、静物、風景、、、といった対象を具体的に写したプリントはシンプルで直球だから説得力があります。このくらいストレートに路上を写せたらなと、そんな思いがこみ上げてきます。特に入口付近に目を引かれた作品があって、ハノイで撮影された越野亮介さんの印画紙の端の重なり具合(留め方)が妙に気になったり、入って右壁一面には強烈な八段掛け八十枚一本勝負的な阿部淳さんの八十年代のストリートスナップは写真集で見るのとはまた違う圧縮度でクラクラしました。

そして作品鑑賞が進むにつれ、会場内に共通する、ある空気を感じて、モヤモヤと焦点が結ばないまま既視感に似た感覚が立ち上がって消えていきます。至近距離に写真が在るにもかかわらず、どうにも焦点が合わないような、もどかしい感覚です。

普段から、わたし自身なかなか目的地にたどり着けなくて右往左往しながら、写真という装置とプロセスを使っていれば「写真なのか?」とか、最近そんな着地点のない自問自答ばかりして過ごしています。でも写真はどの地点から何度でもスタートしていいのだと、また失敗地点は新たなスタートラインにも成りえるのだと、そんなことを「VACUUM写真展」出口で思いました。

Saturday, July 8, 2023

......From my room Nishinari 


月曜日、今年も誕生日を祝いに神戸まで行ったさい、途中 南京町の中華街の食材店で仙草ゼリーの素とハトムギを買ってカバンに入れました。ここ最近、豆花(トウファ)=豆腐のスイーツをつくっています。気分転換、逃避の時間といってもいい深夜の台所。料理が得意では全くないのですが、これまで台湾旅で昔ながらの豆花専門店や街の屋台で何度か食べた料理の再現とはおこがましくも、あの日あの時食べたアレを日々の暮らしの中でつくってみたくなります。

にがりの入ったボウルの中で大豆固形分10パーセント以上の豆乳をちゃんと撹拌して、土鍋の外釜に水を張って弱火で蒸します。底はそのまま接触しないように蒸し皿を載せます。ハシで鍋ブタの横に隙間をつくると豆花の表面が滑らかく仕上がります。30分ほど蒸したら火を消して、さらに保温状態で20分置きます。見た目がまだ水っぽく見えたらもう10分ほど保温状態で置き、粗熱を取ってから冷蔵庫へ。

夜な夜な台所に立って、湯を沸かし液体を測り撹拌して、温度管理…なんだか写真(フィルム)現像に少し似ています。思い切り美味しく食ってやろうと集中しても、失敗もあるし、物足りないこともあります。だけど料理は自分でつくって自分(と家の人)が食うのだから失敗してもやり直しがきくし、マズくても我慢して食べれば消えてなくなるので、写真と違い暢気なものです。

豆花を冷やし寝かしている間に、今日のことは忘れ、床に就いたら清々しい朝になれます。シロップはきび砂糖を使い、炒めているといい香りがしてきて、溶けたら水を入れ、そのさい急激に砂糖が固まっても気にせずシロップ状になるまで弱火で加熱してから冷やしておきます。

上に乗っけるトッピング、花生(ファシェン)=ピーナッツは殻つきを剥いて水に浸しておき、きび砂糖といっしょに柔らかくなるまで煮込みます。地瓜圓(ディーグァユェン)=サツマイモの団子はさつま芋の皮を剥いてレンジでチンしたらペースト状になるまでフォークで潰して、片栗粉と砂糖といっしょに水を加えながらこねて、棒状に伸ばしてから食べやすいサイズにカットして茹でます。他にも黒と透明の粉圓=タピオカや緑豆や仙草ゼリーやハトムギなどなど素材と気分で必要な分だけつくり、美味しくいただいたら消えてなくなる、これがいいです。

Saturday, July 1, 2023

......Nishinari, Osaka

 



今週は先月の台湾で撮影したフィルムを現像し、繰り返しスキャンして眺めていました。言ってみれば、日常生活に全く役に立つものではない、それを見てどうするの(どうにもならない)みたいなものを飽きずに繰り返す、その心は…?義務感や努力や意欲や目的とも違います。

たとえば今朝、スキャン中7インチレコードを聴き終えてターンテーブルを止め忘れていたら、パチパチ...と小さなノイズの後、心音のようなドクドクドク......と静かに鳴り出してゾクゾクしました。思うに、言葉ではうまく説明しきれない、ささいなテイストみたいなものが向うからやってきて、そんな状態の時に、写真を撮ったり、写真を切ったり貼ったり剥がしたり、また重ねて、なにかをつくってみたくなります。


それは路上で見かける草臥れた紙片、空き地に生えた植物、壁のポスターやフライヤー、色や文字が剥がれた印刷物、偶発的に出会った物体など、黄ばみで汚した自分の写真集の表層を見て思う感覚とどこか似ています。全てはささいなことで、なんらかの作用によって現れ、(美)意識の外側に在り続けているモノや人や出来事に条件反射的に感覚が動くかどうか...なにもないときに重要なことが起きるというか...あまりコンセプトやテーマから向かいたくありません。

今、ささいなことでも変化を見ることが好きです。なんか変わってほしい、自分の写真でも変化が見たいというのがあります。そこからそれを土台にしたイメージが出来たり、とても曖昧な適当といえばかなり適当な出だしが、作業中予定外の展開に繋がり、ひとつの違和感になったりして自分にはかえって重要なはずです。

ただそこで「予定外のことをやる予定」みたいになってしまうとしんどいので、結局は持っているものでやるしかないと噛みしめて、「ひとつひとつ」あきらめているところです。そうして我慢することなくあきらめて、あきらめてもあきらめても、あきらめきれず掴んでいるものが続いていったらいいなと。今のところそんな感じです。

Friday, June 16, 2023

......Kizugawa station, Nishinari

 


水曜日、阪神なんば線で千鳥橋へ。此花のシカクにて小川雅章さんの『Osaka Lonesome Road』を見ました。展示空間で心に残ったのは、あえて言葉にするなら、なにかを生み出す時に込み上げる「正直」さみたいな感覚でした。

2、30年ほど前の大阪にて、画家本人の生活圏で歩いて撮影されたという写真をもとに、描かれたアクリル画です。風景の記録や記憶だけに止めるのでもなく、そのままのディテールを表現することだけでもなく、足し算と引き算をして描かれたとのこと。制作中に画面上で刻々と描かれ変化する物質的な質感に、モチーフ(風景写真)が絡み合うことで生じる「正直」さが貼り付いていました。

この絵の舞台となる港湾地区は、わたしが現在暮している生活圏内でもあり、今ではすっかり変わってしまった工場地帯の風景だったり、知らない時代の見たこともない貨物線の駅や空港跡の幻影も、不思議と全て懐かしく、ひたすら絵の中にひたっていたい気分になります。おそらく相当選び抜かれた写真を構図中に構成して、絵の精密な技術と、大阪の風景に対して湧き上がるリスペクト心が絵に宿っているようにも感じました。SNSや印刷プリントの画面だけでなく、実際のオリジナル(原画)と絵を描いたご本人を前に見ることができて更に引き込まれました。

Monday, June 12, 2023

……Shinsekai, Osaka


土曜日、現像液を作り午後天王寺。日曜日で閉店するスタンダードブックストアへ。大阪に住み始めたころは心斎橋に在り、その後は阿倍野から天王寺に移転してからも足を運んでいました。大阪の本屋でいちばんほっとする本棚です。

一寸まえから読書欲が減退している気がしますが、写真関係のzineや大判写真集は増えたせいで、作業部屋の押入れはパンパン、机のまわりは積んでゆく本が倒れそうです。減らしたい気持ちはあるけど、写真集がほしいと思う気持ちは大して弱まりません。しかしレコードやCDといっしょに今年中くらいには特に写真集は減らすことにしたいのですが…

“本はどこで買うかどこで読むかまでが読書”…どこかで聞いた言葉が浮かびます。最後に一冊、せっかくなので最近買いたかったけど自重していた新刊『アイム』 Snapshots taken by homeless people. 年齢も性別もさまざまなホームレス状態の15人が撮影した写真集を購入して店をでました。オンラインストアは継続するとのこと。きっとまたどこかに移転した知らせがやってくるといいなと、待ってます。

Wednesday, June 7, 2023

……Tennouji,Osaka


土曜日、玉造の玉造現代美術館で田辺朋宣さんと田村武史さんの二人展を見ました。ひたすら反復してゆくおもしろさと、一つの空間に二人の作品が区別して配置され、統一感がジワリと伝わってくる展示でした。

入り口付近に作家と並び座っていた少年がナビゲートしてくれました。そうして絵を話すこと、観ること、その絵に画かれたなにかの話しであったり、そんな説明はいらない、必要ないとばかり、作品をつくった本人の前後左右、生活周辺が浮かんでくるような気にさせられます。その真ん中のぽっかり空いたなにかが作品なんじゃないかと。そんな風な思いが頭の中でグルグル巡る、温もりのある時間でした。


Friday, June 2, 2023

...Taiwan

 



あっという間の二週間、滞在した台湾から西成の自室へ戻ってきました。前回の渡航はコロナ禍が始まった2020年の初めだったので三年半ぶりで、その間、自分の中の優柔不断さとつたなさを使って、なにか表現したい方法を探しているようでした。

意識して捨てた部分や忘れているようなものの中に探しているものが実はあり続けたりするんじゃないかと。作業場に在る段ボール箱や押入れから、私家版書籍やボツにしたプリントがコラージュの一枚へと居場所を置き換えていました。そんな中、頭の空気も一瞬入れ換えたくて外へ出発しました。正直ギリギリまでインドのコルカタと迷いましたが、今回は体調の部分で自信がなかったので、ゆるさがある台湾へ。

待ちに待った海外撮影で、まず印象に残ったのは、台湾でもどこの外国の路上でも行ったことがある人ならわかると思いますが、基本的に他人に関心が少ない人たちが物珍しそうに?寄ってくることはあっても、大阪の西成や東京の街で最近おこられる的な神経質な反応はされないことでした。こんなことを書いていると、近頃自分は伸び伸び撮影してないなと、反省しつつ、ここ数年写真を撮ることが難しくなっていることに気付きます。もちろん技術的な意味ではなくて向き合い方といったらいいのでしょうか。

実際、この旅でも基隆や台中のローカルでは今も首輪がついてない犬と一緒にブラブラ歩けたり、あの懐かしいような新鮮な撮影の感覚が久々に甦ってきました。あと基隆の旧市街や萬華の華江整宅や台中の市場などは、まだまだ10年前の初渡航時と印象は全然変りなく、まるで80年代くらいで時が止まっているようなさびれ具合です。一昔前の日本の街頭を想わせる雰囲気に、今はなき幼少期を過ごした地元の光景や匂いの記憶を呼び覚まされ、勝手に重ねて置き換えてみたり、そんな状態で街の片隅をのんびり歩いている時間が一番おもしろかったです。

写真は見えないものを見るための方法でもあるかもしれませんが、写らないようなものを見るための旅でもあると実感します。これからも誰と競争するわけでなく、偶にはどこか外(外国)へひとり旅にひっそり出発できたらうれしいです。謝謝你と再見。

Saturday, May 20, 2023

......Keelung, Taiwan

 



待ちに待った三年半ぶり二週間の予定で台湾に訪れています。ただ今、北部の港町 基隆を起点に足の赴くまま撮影中です。

昨日も昼から雨は上がり、バシッと撮りたいから67(マキナ)で行こう、とか今日は腰が痛いから35(ローライ)にしよう、とかその日の気分でカメラを決めて宿を出発します。 足の赴くままといっても蒸し暑い中、歩くスピードは少々衰え気味でフィルム消費が停滞しておりますが、台湾ローカルは、特に基隆はブラブラするだけで何故か心が安らぎます。

無心を心がけたいのに、何かと勝手に頭に浮かぶイメージが気持ちと重なる瞬間に迷わずシャッターをきっているので、きっと「なにか」は撮れてないでしょう。だけど、その予想通りには上がらない点がフィルムで撮影する最大の魅力なんだと心をよぎります。

この旅もほぼ目的がないまま始まり、写真の表面が常に未確認のまま流れて行く時間に居続けること、そこに言葉にできない快感がともなうこと、それが旅の気分に大きな影響を及ぼしていることも実感します。あとやっぱりカメラを開けたり閉めたり、フィルムを入れたり巻いたりするガチャガチャ感はいつまでも居心地がよいのです。

残りタイムリミットまで台湾ローカルの老朽化した建物や見逃すことが多い普通の人の生活、ひっそりとした人跡、閉塞感みたいな波動、写真にはちゃんと写らないようなもの、見えないものを見るためにボチボチ歩こうとおもいます。謝謝。


Saturday, May 13, 2023

......Shikaku-koen, Nishinari-ku



いつまで続くかわからないまま始めた、自分の写真(写真集等)を切ったり(破って)貼ったりするのをきっかけに、初めて「貼る」「撮る」という手法が同じ線上に並んだような気でいます。

それは街を歩いてて、つい今しがた体感した空間の印象とずっと前に遭遇した風景の記憶が交差したり、昨日めくった写真集の匂いやカサカサした手触り感と今朝聴いたレコードジャケットのサイズ感や質感みたいなテイストを全てミックスして、自分の中のなにかと反応したら、心の中で言葉で表現できないモヤモヤとした感情となって、溜まっていく気がします。そんな溜まったものを、別の形にして取り出してみたくなる感覚です。

ずっとあまり計画もしないで優柔不断に写真をしてきたおかげで、取りあえず歩いて、撮って切って貼ってみたいに、これからもそこで浮かび上がった(現れた)ものが失敗でも、その上から貼ったりはがしたり、また歩いたり、、、優柔不断的に繰り返していけたらと思います。どうせなら続いていったものは、最終的にいつか全て等価に繋げてみたい願望もあります。

それでどうなるわけでも、だからどうしたというわけでも、もちろん誰かのためでもない、単にそういった理解不可能な衝動が内側から突き上げてくること、それが自分にとってなにより大切なことです。昨日単純につくりたいと思った気持ちが、これから先二度とやってこないかもしれないし、今日自分の中で起きるかどうか、明日明後日も続いていくかどうか、そこに尽きます。
 

Monday, May 1, 2023

......Minami-tsumori,Nishinari-ku


 

それはそうと、数年前からカメラとフィルムで撮影する日が減っています。単に身体がくたびれているだけなのか、それとも飽きたというのか、20年間TRI-Xという白黒フィルムだけ、ほぼ1つ(1種類)しか買わなかったわけで、そうするとだんだん煮詰まってきました。ずっと白黒フィルムで写真だけ撮ってれば安定感が生まれていいのでしょうが、駄目でした、変わりたくて。

そんな日常を繰り返すうちに、意識し始めたことはカメラの重さです。気持ちがのってる時は気にならない、その重さも、のらない時は、どうせ今日も収穫はないだろう、ないに決まっていると、持ち歩かない日がだんだん増えてきました。そしていつもカメラを持ってない時ほど、カメラで撮りたい瞬間が訪れます。

数年前から、延命と気分転換にカラーフィルムとコンパクトな35mmフィルムカメラも使うようになりました。「Rollei35/ブラックボディ」手の平サイズの目測式(ピント合わせ不可)をポッケに街中をぶらぶら、反射的にこちらにひっかかってくる者をノーファインダーでスナップしたり。また長年使う中判カメラ「Makina67」を久しぶりにオーバーホールに出し戻ってくると、まず写真など撮らないとわかっている日でも、その「鉄の塊」とカラーの期限切れブローニーフィルムをリュックに入れ持ち歩いてみたり。

風景に感動しても写真に撮りたくなる衝動と必ずしも一致しないことはよくあります。逆に被写体にふと目が止まり、その被写体そのものに特に興味があるわけではないにもかかわらず、目がひかれてシャッターを押してしまう、そんなこともあります。特定の場所のグチャグチャしたのだけを写して残したいというのではありません。

私自身、写真のことはいまだに何もわからないどころか、や(撮)ればや(撮)るほどわからないことが増えて、結局なにもわからない、ということだけは感じられるようになり、それが今でも続いています。

Friday, April 14, 2023

……Tengachaya-koen ,Nishinari


 

先週くらいまで仕事の時間、休み時間のバランスが崩れ、一週間のサイクルがぐだぐだになっていました。「ありがとう21」のおかげで久しぶりに盛り上がった春の甲子園が関係していたのかもしれません。

ふと、今年の初めごろ作業部屋で印刷物の切れ端で埋まった黒いゴミ箱の中身をゴミ袋に詰め替えている時、切れ端同士のいくつかを、白い線でつなぐことが浮かびました。さらに、押し入れに放置され情けない方向へ進み出した私家版写真集の頁も重なり、一瞬、うまくいきそうなカンがしました。

そんな流れから、いつもの根拠のない思い込みだけで、行き場を失った私家版全11タイトル、写真集「旅と路上」のシリーズから本文の頁を切り取り、紙画面(全紙サイズ印画紙)、写真集本体の表紙、レコードジャケットに貼って、コラージュやブックカバーのようなもの、レコードカバーのようなものに置き換えています。こうして“端と裏”バージョンも弱々しく動き始めました。発端はいつも些細なことから静かにはじまります。

コロナ禍以降は殆ど旅に出ず、近所の西成や鶴橋あたりを散歩、撮影と切ったり貼ったりを行き来しながら、着地点のない自問自答に引きずり込まれ、選ぶ(撮る、切る)と捨てる(貼る、剥がす)がカードの表裏のような関係になりました。切り絵のような、貼り絵のような、自分の中にある拙さを感じると、なぜかホッとします。

また最近は延命作業のひとつとして、この流れのなかで何かしたいと、紙片を水に“浸けて干す”を追加しました。指先ですぐ固まってしまうボンドの塊と共に、まだまだ制作の道順(プロセス)を探りながら進めていこうと考えています。

Saturday, March 25, 2023

......Nishinari-ku

 


今週は月曜日、「ありがとう21」の初戦、一年ぶりに阪神電車に乗って甲子園へ。それから水曜日、WBC決勝戦、朝から視聴。どちらも見応えのある素晴らしいゲームでした。甲子園も世界の舞台でも平常運転する選手に特にぐっときて、思わずコブシに力が入るのです。

日々同じような作業を意識的に繰り返しているつもりでも、無意識の微妙な変化が生じます。一つが終わると、一寸(ちょっと)間を置かないと客観的には判断できないことだらけで、どんどんデジタルの時代になって行っても、身体で表現した行為や手で作ったものには謎に引き込まれていく思いがします。

Monday, February 20, 2023

......Shinsaibashi

 



土曜日、西成。部屋干ししてパリパリに乾いた写真の断片が散乱しています。切り貼りしようとおもっている私家版が積ん読本みたいに増えていきます。

昼過ぎに心斎橋に行くと、先日オープンした i GALLERYという場所をたまたま訪れ、開催中の森山大道の個展を観ました。展示は主に90年代の大阪の写真で、これまで写真集では殆ど見たことがある作品でしたが、会場入口近くに吊るされた、ポスターが20枚重なって存在感のある2点は特に印象に残りました。

そのあと韓国の麻薬キンパを食べて、コニシの即乾ボンドを購めて、そのあと天神橋商店街まで歩いて、はじめて入ったお店で台湾ドーナツを食べたかったけど、ありませんでした。

Tuesday, February 7, 2023

......Nara

 


土曜日の正午一時過ぎ、天王寺から大和路線に乗りました。奈良駅でバスに乗り換え、車窓から観光客と戯れる鹿を眺めながら、初めて奈良市写真美術館へ。

個展、藤岡亜弥さんの「New Stories」。展示空間いっぱいに、一括りにできないサイズ感、大小の額、縦位置と横位置の作品がコラージュのように壁に沢山かかっていました。もう私はマーキングするように行ったり来たり順番も無視して歩きます。気づくと、「エコダ、タイワン、ニューヨーク、ヒロシマ、、」頭の中ではどんどん脱線していくこと、、、止まって、観て、歩くを繰り返します。どれもすごく面白かったです。

地元ヒロシマの作品には町と川、ドームと人の結びつきについてハッとします。子供のころ毎日あのあたりを歩いているのに気づかなかった、ふとしたシーンが勉強になります。シャッターを切りながら、一つの風景だけ見てないような、写真しながら、私小説みたいなフィクションを記録してゆく写真作家に脱帽です。

Sunday, January 8, 2023

......Nishinari-ku

 


年末年始は西成で過ごしました。それから散歩…町に人はいるから、年中無休の店もあるけど、三日か四日まで休みの店も多くありました。暇つぶしに読む本、写真集、あとyoutubeなんかも、現実逃避として世界各地の旅モノ(台湾やインドとか)でいっぱいになります。

年明け、自分に言い訳しながら、止まっていた「撮り切り貼り」にも取りかかり始めます。一つずつやるしかないから、取りあえず作業の為の時間を作るところからです。どのくらいで形になるか、量は足りているか、ゴールがぼんやりとでも見えるところまで行ければどうにかなりそうな、そんな気がしますが、まだ何も見えません。

Sunday, December 18, 2022

......Tokyo



レクトヴァーソギャラリーにて行われたグループ展が終了しました。寒い中お越しいただきありがとうございました。

今回の展示も、その時の時間、空気感、雰囲気、匂い?など、全てあってのことなので、あとで説明するのは難しいけど、日々暮す「大阪」の街で撮影した写真を、「東京」で展示していることを実感する大切な時だったと思います。

これをまた励みに、これまで続けてきたこと、そこから進める以外先に進めない気持ちでいます。そしてこの度も展示のチャンスを与えていただいたギャラリーの方には感謝いたします。

Monday, December 12, 2022

……Nihonbashi,Tokyo

◾️ 展示のお知らせ






東京・日本橋のRECTO VERSO GALLERYで開催されるグループ展に参加します。

私は、日々暮す大阪・西成で撮影した作品を展示いたします。お近くにお越しの際にはぜひお立ち寄りください。

Monday, December 5, 2022

......Tennouji,Osaka

 


十二月、今年もあと一ヶ月です。いろいろやることが残っているけど、一つ一つ片付けていくほかありません。一年が経つ早さを考えると、年々あっと云う間に過ぎていく気がします。

先月、守口のケイズカメラリペアに送ったマキナ67が修理伝票といっしょに帰ってきました。「露出計不良、モルト劣化、プリズム剥離、、、蛇腹交換、巻上げ部の洗浄、グリス入れ換え、、、フルメンテナンス作業完了。」とのこと。

ふと自分にとって「カメラ」とは何か?考えます。カメラを変える人、変えない人、カメラを変えると写真も変わりますが、その違いはどこに現れるのでしょう。どこにピントを合わせ、どのフレームで見るか、わたしは今もカメラに引きずられながら、ついていく感じでいます。

Sunday, November 20, 2022

......Yagenbori,Hiroshima




十七日の木曜と十八日、ひろしま。

もう…三年です。二人でお墓参りに行ってきました。あれから家族の中でもいろいろあったので長いようでもあり、あっと云う間でもありました。

いまだ「ケント~!」って、あの独特な声で母が現れるような妄想をしています。