土曜昼、この夏も西に向かって応援してました(web観戦)。連日の猛暑のなか選手、えんじ色のタオルにガタイのいい坊主頭の応援団、ブラスバンド、ダンス部、先生、、、見事夏2年連続25回目「ありがとう21」バンザイ!
日曜夕方、道が曲がってグネグネした袋小路みたいな場所の、何かわからないけど造形が面白い、狭くて入って行くところ、何かわからないけどたのしい、と感じて身体を傾けて大汗かいていました。別に入って行かなくてもいいけど、何となく入って行った方が撮れそうな気がする、こう云う場所が大阪にもけっこうあります。
コマーシャル系やドキュメンタリーのように、社会的な文脈で成立している写真を撮るなら、被写体に付随している意味を読み解けばいいのですが、自分のようになぜこれを撮ったかと云う動機が存在しない(ように思う)写真に対して、自分が語っても、それは正解ではないし、信用なりません。写真について話す言葉はとても難しいです。
コンセプトなんてなくて、無秩序で最終的に決めているものもなく、何を撮るか、どこで発表するか、その為の資金をどうするか、そう云うことは全部自分で決め、ずっと「自作自演」みたいな行為がえんえんと続いています。簡単に言葉にすることができない写真の「時間と空間」をそれだけで完結させないように、普段からできるだけ非効率的で非合理的な行為の続きを、続けて行く、たぶんそれしかありません。そして自分の意識(言葉)や写真の勘みたいなものが変わってゆくことを感じたいのです。