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Saturday, July 1, 2023

......Nishinari, Osaka

 



今週は先月の台湾で撮影したフィルムを現像し、繰り返しスキャンして眺めていました。言ってみれば、日常生活に全く役に立つものではない、それを見てどうするの(どうにもならない)みたいなものを飽きずに繰り返す、その心は…?義務感や努力や意欲や目的とも違います。

たとえば今朝、スキャン中7インチレコードを聴き終えてターンテーブルを止め忘れていたら、パチパチ...と小さなノイズの後、心音のようなドクドクドク......と静かに鳴り出してゾクゾクしました。思うに、言葉ではうまく説明しきれない、ささいなテイストみたいなものが向うからやってきて、そんな状態の時に、写真を撮ったり、写真を切ったり貼ったり剥がしたり、また重ねて、なにかをつくってみたくなります。


それは路上で見かける草臥れた紙片、空き地に生えた植物、壁のポスターやフライヤー、色や文字が剥がれた印刷物、偶発的に出会った物体など、黄ばみで汚した自分の写真集の表層を見て思う感覚とどこか似ています。全てはささいなことで、なんらかの作用によって現れ、(美)意識の外側に在り続けているモノや人や出来事に条件反射的に感覚が動くかどうか...なにもないときに重要なことが起きるというか...あまりコンセプトやテーマから向かいたくありません。

今、ささいなことでも変化を見ることが好きです。なんか変わってほしい、自分の写真でも変化が見たいというのがあります。そこからそれを土台にしたイメージが出来たり、とても曖昧な適当といえばかなり適当な出だしが、作業中予定外の展開に繋がり、ひとつの違和感になったりして自分にはかえって重要なはずです。

ただそこで「予定外のことをやる予定」みたいになってしまうとしんどいので、結局は持っているものでやるしかないと噛みしめて、「ひとつひとつ」あきらめているところです。そうして我慢することなくあきらめて、あきらめてもあきらめても、あきらめきれず掴んでいるものが続いていったらいいなと。今のところそんな感じです。