三月十四日(土)、昼すぎ、今週も自宅からほど遠い京都の疏水沿いを歩きました。淀屋橋駅経由で京都に行き、またある日のいつもの散歩から淡々とはじまっていくみたいに、反射的にこちらに引っかかってくるものを眺めて、スナップを撮ったり、わたしの場合、ものに寄りがちなカメラワークで、どんどん寄って、足元を見てしまうのがただ今現在のスタンス。
風景に感動しても写真を撮りたくなる衝動とは必ずしも一致しませんが、いつもカメラを持ってない時ほど撮りたくなる瞬間が訪れます。うまく思い出せない夢のようになってしまうのも事実で、何かを「見た」気になているし、空間を「感じた」つもりになっていても実際は、自分が意識して見過ごし捨てた部分の中に、探しているものが、実はあり続けたりする経験が、これまでもある気がします。
ついつい都合のいい部分だけ切り取って、都合のいい部分に何か意味があると、思い込んでいるけど違ったりします。考え方ひとつ変えれば、捨てたり、忘れたものの中に考える何かはあるかもしれません。そのへんが感覚できないと写真を長くやっていてもつまらなくないます。結局は、何をどういいくるめようが、何らかの必然性のないものやことは終息に向かう、そのことだけはいつも信じています。一つの必然性じゃなくて、これまでの経験や身体のなかに在るいろんな必然をベースにして。
